中絶の権利に関するコメントを見ると「胎児も生命」といった素朴なプロライフ的意見に対して「であれば乳児や受精卵は?」といったプロライフの極北を問う指摘が寄せられることが多いように思う。個人的にはこの生命の境界事例論争はあまり筋の良い議論には成りえず、理性(能力)を基準に動物や障害者が持ち出されるとそれ以上理詰めで話を進めることは難しくなってしまう。
他方あまりコメントがつかない印象なのはプロチョイス側の極北である。中絶の権利は直接的には「妊娠した子供を産まない権利」であるが、この権利の本丸は「多くの時間と労力を擁する出産育児を自身の人生において行うのか、行うとしていつにするかを決定する権利」つまり「人生の決定権をより個人に帰属させること」にある。
したがってプロチョイスの極北は「自らの人生に置いていつ何をするのかは個人が決定権を有する」ということになる。これは古典的リベラリズムの理想といって良い。よってここからの議論はかなり能力主義に関する議論に近接する。「現に我々の多くは人生の自己決定権など大して持ち合わせていないし、将来的にも実現不可能である」と不完全な理想として批判するか、「仮に各人が完全に人生を自己決定できたとして、そのような完全な自己責任である人生は多くの凡人にとって地獄である」と幸福論に進むか、「各人が自分の人生に対し十全の自己決定権を発揮した場合、そのような個人の集団は社会を維持できない」と集合行為問題に進むか、である。
プロライフに比べると議論が直感的ではないし、前提も長くなるので字数制限があるsns向きではないとは思うが、プロライフの極北だけでなくプロチョイスの極北についても中絶の権利を考える際には重要であると考えている。