他の特定の属性を持つ単語でもそうなのかもしれないが、今日は一例として「左翼」を取り上げる。
SNSとかでいきなり「私は左翼ですが云々」「左翼の私にとっては」とかいうやつに限って、何もしていない。
いきなり野球で譬えるんだけど、おっさんが横になりながらプロ野球見てて、選手や監督にぶつくさ文句言っている感じに近い。
それくらいしかしていない。キャッチボールや成績指標の調査や、ファンクラブへの入会とか、そいういう接近や実践がない。
左翼的な実践(それは何でもいい。左派党派に入党するでもいいし、日々の中で働き方を自分で少し改善したり周囲に改善を促したりでもいい、社会学の本を読むでもいい)が、実は乏しい。
はじめに言った通り、ここでは党派性や政治志向を論じたいのではない。また「貧乏だ」とか「学生だ」とかそうした性向でないものは対象としない。
他の任意の単語でも全然よくて「私はサバサバしているから」とかだとわかりやすいかもしれない。
そういう人に限ってサバサバしていないってのはネットでよく言われることだ。
自称する人は、サバサバするための実践をどれだけしているだろうか? 具体例をどれだけもっているか? ここを見ないといけない。
そうした事例が、実は世の中にあふれている。
その属性を持っている人は、別にそれを表明しなくともその状態にある。わざわざ言うのは何か後ろめたさや怪しさがある。あるいは学術的なかっこつけがある。
「何かである」と表明することには、ほんの少しだけ重みがある。