義務と権利があるところには、「お互いがお互いを尊重し、敬意をもって接しなければならない」という義務が全員に存在する。
誰にでも表現の自由があり、かつ生きるために尊重されなければならない権利がある。
ゲイが嫌いなのは問題ない。何を思うかは自由だから。なぜ何を思うのが自由なのかと言えば、そういった自由があって初めて、その人にその内心の責任を問えるからだ。
何を思うのも自由だが、何かを思ったとき、その責任はあなたにある。
もしも内心に自由を与えない制限を課したとする。すると、その制限を課せられた人間の歪まされた内心から生じた認知や認知から導かれる意思決定の責任は、本人にあるのではない。
誰にでも何かを思う自由はあるし、必要なら声高く宣言することも認められるべきだ。そういった自由を認めたところに、その行為の責任を問える地盤があるのだ。
なぜそのような権利が認められるのかと言えば、そのような基本的権利があって初めて人は人間らしく生きられるからだ。
何かの主張が誰かの差別につながり、だれかの人として生きる権利を侵害するなら、そのような行為はされるべきではない。
では、人間AとBが、お互いに自分の人間らしく生きるための権利で戦うとしよう。
Aは、Bに対する差別発言を行う権利をもつことで、私自身を人間足らしめていると主張する。
Bは、Aを人足らしめる権利を制限する(差別発言を撤回させる)ことによって、私自身を人間足らしめていると主張する。
どちらが正しいのだろうか。
※ちなみに、AとBは殺し合いをしているわけでも、相手の生殺与奪の権利について戦っているわけでもない。
私にはどちらの権利も重要なので、簡単に決められることではないと思う。
私には「あなたは自分の右手で左手を切り落とすか、左手で右手を切り落とすか、どちらかを選ぶ自由があなたにはある。」と言われてるようなもので、
「そのどちらも選ばないという自由は無いのですか?」と質問したくなる。
実際、上記AとBは、お互いにお互いを尊重し、敬意をもって、話し合うことすら不可能なのだろうか?
もしも本当にそういった妥協案のようなものが不可能だったならば、私なら相手の自由を認めてあげることで対処したい。
また、そういった問題を「お互いがお互いを尊重し、敬意をもって接し、話し合いと相互理解で解決する」以外の方法があるだろうか。
人間として生きるための必要な権利とは、ときに広範な義務を発生させる。
結局、その時必要なのは「お互いがお互いを尊重し、敬意をもって接する」という成熟した人間らしい態度ではないだろうか。
ゲイヘイト公言という概念は、本当にあなたがあなたらしく生きるために必要な概念だろうか。
ゲイや黒人に対する理解が薄いことを認識しているのならば、まず権利の主張からではなく、相互理解から始めるべきではないのだろうか。
クソ その属性名詞を出さずに 権利について哲学しろ このインテリが