スポーツマンである前に人間であり、そして人間なのだから人間として当たり前の行為をすべきだ。
反則を取られるから相手選手を攻撃しないのではなく、お互いの人格と人権を尊重するから暴力をフィールドに持ち込まない、ただそれだけでいいのだ。
そもそもスポーツマンシップなんて概念は、スポーツマンというものを履き違えている。
スポーツマンというものは、勝利のためにはなんでもやるし、スポーツの勝ち負け1つで全人格が左右されると思い込んだ狂戦士の集まりに他ならない。
野球がうまいから俺は何をやってもいい、サッカーに勝つためなら何を犠牲にしてもいい、今さっきゲームで負けたやつはボロ雑巾のように扱っても許される、本気でそう思っている集団がスポーツマン達なのだ。
この事実がスポーツマンシップという概念との間に大きな矛盾を生む。
「スポーツマンらしく振る舞え」と誰かが口にする時、人として当たり前の行為を守る紳士的選手として振る舞えばいいのか、勝利こそを絶対のものとする卑しい戦闘民族として振る舞えうことが求められているのか、両極端な2つの有り様の間で引き裂かれて人として当然のモラルは宙を舞う。
そもそもをして、スポーツマンとは卑しい者たちであるという事実を我々は認めるべきなのだ。
それは何も肉体スポーツにとどまらず、将棋やチェスの世界でも同じである。
勝ち続けていればどんな横柄で人を食った態度をとっても、結局は許されてしまうのがスポーツの世界だ。
その世界の中で構築されたモラルなぞ、人としてあるべきモラルとは異質なものになるに決まっている。
実際、スポーツマンシップに則りと宣誓する選手たちは、その直後の試合で反則さえ取られなければ何をしてもいいとばかりに危険な行為を繰り返している。
彼らにとってのスポーツマンシップとは、ゲームのルール内における反則の概念を自分たちに都合よく利用することにほかならず、その結果として反則を即時に取られるような行為は控えるということにほかならない。
そんなことを毎試合毎試合繰り返せば、徐々に本当のモラルというものはスポーツマンシップへとすり替えられていき、フィールドの外における人間としての真っ当なふるまいの仕方が分からないモンスターとなってしまう。
事実、高校野球におけるエース達が犯罪者へと落ちぶれた例だって少なくはない。