https://anond.hatelabo.jp/20191103163514
に対する反論。
要約:
反証可能性が無い理論というのは、例えば「 X は A であるし、Not A でもある」というような理論である。
「 X は A であるし、Not A でもある」を同時に満たす X は存在しないため、この理論は何も対象にしていない。
何も対象にしていない理論は何も言っていないのと同じであり、存在するとは言えない。よって、反証可能性が無い理論は議論の対象にならない。
反証可能性というのは「反論できるかできないか」なんてくだらない話ではない。
議論している対象は存在しているか?同じ対象を議論しているか?というただそれだけの話だ。
まず、プラトンの作った西洋哲学の基本的過ぎて誰も触れないルールとして「議論は必ず参加者共通の対象を取る」というのがある。
「饗宴」はソクラテスと友人たちが愛の神への賛辞を贈る話であり、各々が持論を述べるところはエリュクシマコスの言葉から始まる。
「僕たち一人ひとりが、左から右へ順番に、愛の神への賛辞を、それもできるだけ美しく、語ってみては、というわけです。」
ソクラテスたちはこれに賛同し、一人ひとり「愛の神はなぜ素晴らしいのか」を語り始める。ただし、「各々考える愛の神」の話を。
だがソクラテスは「わたしたち各人が、愛の神を、実際に賛美することではなく、いかにも賛美しているように見える話をしている」と断じ、
実際の賛美、つまり愛の神の真理=「参加者全員に共通の愛の神」の話をし、合意を形成しようとする。
つまり共通の対象である「愛の神」に対する共通の理論である「真理」の話をし、その合意を形成することが議論であるという事をプラトンは書こうとした。
そこで共通の対象は本当に存在するのか?という疑問が当然生まれるが、これを解決するためにプラトンが発明したのが「イデア」だ。
現在はもちろん「イデア」なんて破棄されているから理論の対象となる真理があるかどうかは実のところ定かではない。
だが、「仮に真理があるとして真理を目指した理論」は書いたそのままに存在するから、この理論を議論の共通の対象とすることで議論は成立する。
「理論」は議論の対象にし、反証反論を受け付けるために存在するのだ。
だから反証や反論は理論を否定するものではあるが、必ずしも理論を破却するものではない。修正することでより真理に近づくし、「理論に対する議論」も発展する。
ここまでは良いだろうか?そして最初に書いたように、反証可能性が無い理論は論理的に言って存在するとは言えず、
存在しない理論もそれを対象とする議論も意味があるとは言えないから反証可能性が無い理論は科学的には意味が無いのだ。
反証可能性が無い理論には他にも全く再現性が無い理論とかもあるが、単に手段が限られていたり再現するお金が無かったりするのは反証可能性が無いのとは関係が無い。
だから「反証可能性」ってのは便利そうな概念とかじゃないし、そう教わって納得したのなら貴方は教わったし知ったつもりなのだろうが知っていないのだ。
もちろん、私が書いたことをそのまま信じるのも愚かなことだ。だから考えたり他の誰かの考え方も聞いたりして見て欲しい。
存在しないもの、何も対象にしていない何も言ってない理論は議論の対象になりえるか?を。それこそ我々プラトン学徒が存在について考える理由なのだから。