自分の不幸を誰も悲しまない状態へ持っていくには、秘匿、共感を得させる、笑い話に昇華させる
色々あるが
喜びは裏を返せば苦しみである。
自転車を漕ぎ続けなければ倒れてしまうように、我々の生活は常にエネルギーを必要としている。
更に、エネルギーを消費すれば老廃物が出る。
中身のないマッチ箱、ガムの包み紙、きのうまで有益だった新聞紙の類。フケであり、抜け落ちた髪であり、取り払われない砂塵である。無論、人間自身の意識から外れたミクロな世界で言えばゴミの類も有益であろう。
取り敢えず、人はその老廃物が蓄積されていない状態を秩序的である、と定義した。
人は半身が生き半身が死んでいるような物だと私は考えている。死んだ細胞は常に体の何処かに付随している。例として爪があげられる。
捨て切れない記憶だったり過去のしがらみもそうだ。常に新しい自分では居られない。
生まれや育ち
親の資産という要素は重要だが、何を持ってしても生命維持活動は必須だ。
名声や富さえあれば、生きづらさは多少は軽減されるだろう。
ところがハンデとして得た幸福は一時的かつ相対的なものでしかなく、絶対的に存在する終わりや生命維持活動自体は免れない。幸福を何と定義するかによって、人々は苦しめられる事にもなる。
生きる為に走れば走る程違う景色が見える。見えた景色の中の物を手に入れられれば幸福なのであれば、人の幸福は際限がなく、また満たされない無限のブラックホールのような存在ともなる。
死を救いではなく苦しみと定義するのであれば
せめて生きている間は、自身の苦しみで誰かを傷付けるのは不本意である。
幸福な誰かがいる時、自分も幸福に気付こうとするバイアスがかかる
自分の不幸を回避しようとしているうちは、人間は幸福を見つけることはできない。 他者を幸福にしようとしていると、人間は驚くほど幸福になれる。 これはイエスをはじめとす...
でもキモくて金のないおっさんを幸福にするくらいなら不幸なままのほうがいいんですよねわかります
ためすけさん。 世のため人のためを考えるって嬉しい。 きさくさん。 人の為の喜びつくるさん。 気さくな人。 他人の笑顔をみるのがわたくしの喜び だいたい、みんな幸せだ。
一切は、空でいいんじゃないっすかねー。 あとは、自分がコルベ神父になれる人か、なれない人かの違いくらいでしょ。 八十の爺さんに、人生を説くんですかね。