“世界を博愛と寛容で包むラブのマインドを伝播するライブ”のように俺は捉えている。
世間的な感覚では、ラブ=セックス、と捉えて「ラブライブ」の単語をいかがわしい響きと感じがちなのはよく分かる。
もし「ライブする少女たちはセックスシンボルではないか」と問われれば、「その側面は間違いなくある」としか言えない。
だが、この作品はそれをネガティブに描かない。そこに意義がある。
素直に、真っ向から、自分たちが女性であること、少女であること、若者であること、地域や学校に属する人間であること、そして成長する人間であることを全身で表現し、ライブで伝えるのだ。
そうした姿が不健全に映らないのは、世界観がそう設定されているからというのもあるが、
パフォーマンスをするキャラクター、そして演者が、純粋であることを恥じない強い精神を持っている/持っていく動線が描かれているからだ。
結果として、観る者は作品の独特の世界観に没入するほど、世俗的で動物的な「ラブ」ではなく、より高次元の「ラブ」への感度が高まっていく。
友愛、親愛、対立する者への愛、家族愛、級友や地元の人々への愛、郷土愛、自然や動物への愛、都会への愛(受容)、先達への敬愛、全国のアイ活する同志への愛。
これほど全方位に「ひねくれていない」生き方ができるのは現実の我々からすると眩しいが、作品によって感度が高められるとそれを肯定したくなるのだ。
セックスライブのことじゃなかったのか
“ラブライブ”の意味については、 “世界を博愛と寛容で包むようなラブのマインドを伝播するライブ”のように俺は捉えている。 世間的な感覚では、ラブ=セックス、のように捉えて...