そもそも強さとか相対的なものなので、自分が対象Aより強いってのは、対象Bと自分の関係に影響を与えないのだ。俺TUEEEEとかその意味で全然重要でも本質的でもない。
俺TUEEEEに期待されているのは「対象にはアクセスできない権能や理由によって俺の強さが保護される」という非対称性だ。たとえば、原始の荒れ野においてそれは一本の棍棒だ。その取るに足りない棍棒が、「俺専用」であり他者からアクセスできないとする、その非対称性こそが俺TUEEEEの魅力であり、爽快感の源泉なのだ。
著名人への匿名批判でも幼稚園に俺だけ通わせろでもそれは全く同じ構造で、「俺にだけアクセスさせろ」なのだ。双方向とか相対的なのは気持ちよくない。公平でゲームバランスがよいなんてくそくらえ。
現実世界はおおむね相対主義だしダブスタは忌避される。しかしその忌避されるものこそ手に入りさえすれば蜜の味なのだ。
他人の差別は糾弾しつつ自分は差別放題がエンタメなのだ。弱者である自分は救済を共用するが、自分は自分より弱者を救済しないのだ。戦闘にもならない片殺しが人々の願いなのだ。
強いことなんて面倒だ。なぜなら強いということから利益を引き出すためには戦闘を経なければならないからだ。そんなの手間がかかりすぎる。求められてるのは戦闘ではなく優遇だ。俺は自由を謳歌したいが俺の自由を支えるための不自由は俺以外の誰かが義務として背負うべきなのだ。