最近、家族が寝入った後に一人でPCに向かいながら趣味の時間を過ごしていると「自分は幸せにたどり着いたのだな」という感慨に浸ることが多くなった。
そして、大学でダメな奴らと意気投合してしまいクズ化するというよくある流れを過ごした。
講義に出ずに友人とつるんで酒を飲んでは街を徘徊し、バンドを組んで誰にも理解されないような音楽をやりながら過ごしていた。
その頃のモットーは「幸せになることが重要なわけではない。心が常に震えて揺れる人生こそ俺の目指すべきもの」だった。
坂口安吾の「あちらこちら命がけ」という言葉を体現したいと思っていたわけだ。
そういうわけなので、知り合いの女などがいう「幸せになりたい」というのを心底理解できなかった。
「幸せだと自分で認識するという事は、お前は誰かの生き方のパターンをなぞっていることなのだぞ?」
なんて、ひどく下に見ていた。
しかし俺は結婚をして、子供が生まれ、ホワイトな職を得てしまった。
「心が常に震えて揺れる人生」を望むには、うまくいきすぎてしまったような気がする。
自分が本当に好きだと思うことに挑戦したり命がけになることに憶病になる感覚の方が強くなってしまった。
心底好きだと思えなくても、ほら、少し考え方を変えれば日々の仕事の中にだって本気で打ち込めるものがある。
平凡な生活の中にある幸せをそのまま幸せと受け取っても悪くないんだ。
こうの史代のように「私は常に真の栄誉を隠し持つ人間を書きたいと思っている」を座右の銘にして、日常の中に真の気高さがあるという考え方を全く理解できないわけではない。
それでも、俺は「あちらこちら命がけ」に憧れながら、ふいに手に入れてしまった幸せを「本当に俺が欲しかったのはこれじゃなかったんだけどな…」なんて言いながら後生大事に墓場まで持って行ってしまう気がする。
その幸せが心の底からほしい者です。誰もが手に入れられるものではありません。大事にしてください。どうやったら手に入るのか教えて欲しいです。