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校則問題は色々な観点から言うべきことがあって一概に言えないのはわかってるけどめんどくさいから網羅的な話をするつもりもないんだけど、とりあえずこのフィンランド人の考える「学校は勉強をするところ」ってのは、勉強できなければ卒業できない場所でもあるってことじゃん?
日本の公立高校では、留年なんて欠課時数オーバーとか、赤点救済措置の課題をしつこく迫られても無視するとか、「よっぽどのこと」がない限り起きない。
そしてこの「よっぽどのこと」は風紀指導における「よっぽどのこと」と同じで、「言われた通りやっていれば許される(進級できる)のに、それをやらないって…アホなの?」という目線によって判定される。
「アホで結構。しかしバカは進級できないよ」というのがフィンランド人だとしたら、日本人はバカでも言うこと聞いてたら進級できるとでもいおうか。
まあ、留年しない制度の原因も入試・就職等出口の問題から現場・周りの「かわいそう」とか事勿れ主義まで色々だろうけど、乱暴に一つにまとめれば、そもそも社会が学校に何を求めてるかという問題なんだよね。
結局勉強じゃないんでしょ。勉強できなくてもいいと思ってんだよな。多くの人は。「勉強できるのと本当に頭がいいのとは違う」とか「テストでいい点数とるよりも大切なことがある」とかそんなヤフコメよくあるじゃん。「だから学校はそれを評価すべき」まで来たらもうそこから風紀指導までの距離はゼロですよ。
言い方変えれば、いま留年してる奴らは言わば教科における風紀指導に逆らう奴らで、現状日本の学校はそこを評価する場所なんだろうな。
勉強を評価する場所てある以上は、一定数は勉強で留年してもしょうがないという含みを持った制度じゃなきゃおかしいよね。でもさあ、本当にみんなはボコボコ留年させる可能性のあるシステムを支持するのかな。
疑問だなーと思うよね。支持してほしいんだけどさ。