それは学生時代のサークルの(特に同期の)連中である。音楽系だったので、練習はもちろん、演奏会やそれ以外の遊びのときも一緒に過ごすことが多かった。中高生とか大学生の男子というのは一番女子の容姿というものに対して残酷なお年頃であり、可愛い子と自分のように地味なタイプでは天地のように扱いが違ってイヤな思いもしたけれど、大人になって分かったのは、大人の世界でもそういう容姿差別はなくなるわけではなく、ただ、世間のかなりの人がさほど美しくない人にも表面上普通に接する技を身に付けているというのが結論だった。
学生時代の友人たちは思ったことを正直に口や態度に出した。私はいわゆる空気読めないタイプであり、自己中な行動や言動をしてしまいがちなところがあった(…というか今もそれは完治していないと思う)けど、彼らはそれに対して敏感に反応した。あと、「歩き方が変」とか「声が大きい」とかそういう言われたくないことも容赦なしに指摘した。今思い出すと「私は何てことをして(あるいは言って)しまったんだろう」と思うことは数限りないけれど、彼らがそのとき露骨にイヤそうな態度を示してくれたおかげで、自分の行動が世の中の基準に合っていないことに気付いたのだ。
社会人になると、20代ぐらいのうちに厳しい上司や先輩につかない限り、いろいろなことを指摘してもらえなくなる。自分が非常識な行動や言動をしたときに「それはダメだ」と言ってもらえたらありがたいのだということに気付いた。大人になってから知り合った人って、「あの人変」とか「あの行動はおかしい」となるとどこがおかしくてダメなのか言ってくれることなく自分から離れてゆこうとする。私としては多少欠点を指摘されてもいいから、話し相手になったり一緒に遊びに行ったりしてくれる方がありがたいんだけど、向こうはそんな手間をかける気がない。ましてやお局さまと言われても仕方のない年頃になると、後輩などは遠慮して余計言ってくれなくなる。
ただでさえ空気読めないタイプなんだから、自分の言動や行動におかしいところがあれば指摘してほしいのに「自分で察しろ」と離れていかれるのはキツすぎる。自分で察することができる人間は空気が読めるから察せるのだ。学生時代の友人はその点、容赦なく欠点を指摘する代わりにだいたい世間ではこういう考え方やものの見方が普通なのだということを示してくれた。最近は何か大きなイベントでもないと集まる機会もないけれど、職場の同期よりも学生時代の仲間の方が懐かしい。