そういうふうに文脈と独立した基準を求めちゃうとわからなくなる。バランスの問題なんだよ。
たとえば今の米国で、個人がやってて地元の常連さんがほとんどの田舎の店で、「俺は昔日本人にひどい目に合わされたから日本人お断りでぇ」というのは、それ単独ではさほど大きな問題じゃない。もちろん拒否された日本人客がそれを非難するのも自由だけど、そこのレストランが嫌なら行かなけりゃいいだけだし、感情的な問題は個人間で解決してくれってことになる。
ところが、社会的に反日感情が高まってる状況だとどうだろう。日本人お断りポリシーはその店の話だけに止まらず、反日感情を後押しして、結果的に日本人がそのレストランからだけでなく、他の所でも拒否される「社会的な不利益」を受ける可能性がますます高くなる。そうなると差別問題だ。注意して欲しいのは、「差別を解消する」という目標はあくまで社会的な状況を改善することにあって、そのレストランを攻撃することが目的ではないこと。声をあげて「そういうことはまずいんだ」という合意を形成することで、他の店が倣うのを防ぎ、社会的な状況を改善できる。
個人商店より大きなチェーン店での差別的行為がより大きな問題とされるのも、社会的影響の大きさから。
ちょっと前に車椅子来店を拒否して炎上したレストランがあったでしょ。あれも、「レストランはどんなコストを払っても車椅子を受け入れなければならないのか」なんて議論にしちゃうと解決しない。「今、車椅子では行動しにくい街になっている」って社会的不利益があって、それを全体的に改善してゆくのが目標で、逆行するような行為があれば「そりゃまずいんじゃないの」と声を上げてバランスを動かそうとする。その解消のためにひとつのレストランの負担が大きすぎるなら、それは社会的制度の問題だから、そんじゃ負担をもっとうまく分散させるにはどうしらたいいかを議論しようや、ってことになる。そうやって落としどころを少しづつ探って行くプロセスが差別問題への取り組みなんで、これをしたら悪、これはok、というような規則を決めてゆくことじゃない。
例えばすごく身なりの汚い男が居たとする。 彼がレストランに入ると、ウェイターから次のように言われた。 「あなたの身なりはとても汚く、周囲の客を不快にさせる恐れがある。従っ...
そういうふうに文脈と独立した基準を求めちゃうとわからなくなる。バランスの問題なんだよ。 たとえば今の米国で、個人がやってて地元の常連さんがほとんどの田舎の店で、「俺は昔...
・生まれつきかどうか ・弱者かどうか で決まるんじゃないかな。
差別とは、クレームの数で決まる。 皆が差別だと言えば、それは差別であり、 誰も何も言わなければ、差別ではないのだ。
クレームの数って言い方はどうかと思うけど実際社会の合意によって決まるもので明確な定義はないよね。 ドレスコードで客を選別するのが差別になる世の中が来てもちっともおかしく...