3日前、まだ少し肌寒い春の夜明け前に子供が産まれた。約2900gのとても元気な女の子だ。
私は、日付が変わる前に病院へ駆けつける事ができ、なんとか無事に出産に立ち会う事も出来た。
産まれたあと、少し一人になる時間があり、眠くて眠くて仕方なかったにも関わらず、何故か様々な気持ちを思い返していた。
元々、子どもが好きで、自分の子どもが欲しかった事もあり、娘が妻の身体に宿った時にはそれはそれは嬉しかったものだ。しかし、本当のところは苦悩していたのも事実だった。私のような人間が本当に親になっていいものか、私の子どもになる子は不幸ではないのかと悩み続けていた。
私は母という片親の元で育ち、物心ついた時には既に母は日々忙しく働いており、母から何かをして貰った記憶が全くない。誕生日をテーブルを囲み祝う事もなかったし、クリスマスを皆で祝う事もなかった。ただ、それが普通だと自分では理解をしていたし、それらの生活に不満漏らした事や文句を言った記憶もないが、大人になっていく内に、こういう家庭はあまり普通ではない事に自然と気付かされた。そして、今でも特に誕生日やクリスマスや記念日などが特別な物と感じておらず、特に何もしなくてもいいと思ってしまっている、一般的な感覚からすると薄情な人間であると思う。
また、私はドロップアウト組だ。しかも、大学ではなく高校でのドロップアウト組である。ドロップアウト組である事を妻は知らない、黙っているつもりではないが、特に聞かれてもいないから教えていないというのが正解かもしれないが、少なくとも伝えるのは心苦しいと思う自分が居る限り、自分からは言えない卑怯者だ。
こんな事が頭の中を駆け巡り、「本当に私が親でいいのか」と何度も何度も一人自問をしたけれど何も答えはでなかった。当然だ、本当は子どもが欲しくて堪らない我儘な自分もいるからだ。数日し、そんな自分を察してか、妻が電話をかけてきて「産んじゃダメ?」と言ってきた。私は、「自分の遺伝子は人より劣っているかもしれないから・・・」と、自分勝手な事をぶつけてしまった。それに対し妻はこう答えた、「私の愛している人の遺伝子がもし劣っていて、もしちょっとだけダメな子だったとしても私が強い子に育てるし、二人でいっぱい愛してあげたい、だから私達の子を産みたい」と。電話の向こうで涙が出た。妻の愛が痛いほど伝わり、同時に妻の不安も理解した。情けない話だが、妻にグッと背中を押され、子どもへの不安が解消された。
産まれた今思うことは、この子と妻を幸せにしてあげたい、ただそれだけだ。だけど、決して娘の為に頑張るなんて事は言いたくない、成功も失敗も、どちらであっても娘のせいにしたくないので、娘の笑顔を私の頑張る活力に変えて、親子三人で幸せになりたいと思う。
娘へ。
この先、君が産まれた来たあの瞬間のあの気持ちを忘れる事はないです。君がママの身体に宿った時に、私が勝手に悩んだあの気持ちも忘れないよ、ごめんね。でも、産まれてきてくれて本当にありがとう、そしてこれからの長い人生、どうぞよろしくお願いします。