2013-04-15

正義=悪に対する怒りの代弁者 という風潮

は間違っていると思う。こんな風潮をほったらかしにしたらロクな世の中にならないよ、というお話

辞書的な定義とは別に、一般的に思われている正義感覚とは、道徳教科書に載っているような善行とは少し違って、集団プラスになる行為こそ正義というものだな。

集団プラスというよりは、集団の構成員たちが好ましいと思えば正義、というほうが近いか

ことに現代では、正義は相対的な性質が強い。さらにまた、日本では所属する集団を基準にする性質が強いように思う。

ま、第三者からイジメに見えるような行為でも、集団においては「正義」だったりするのは、日本に限った話ではないが。

むろん、悪はその逆で集団マイナス行為のこと、という感性が一般的だろう。実際、悪はそういう扱われ方をしていると思う。

ところがである正義のほうは、定義通りの扱われ方をして「いない」。

まり、単に集団メンバーたちが好ましく思うような行為をするだけでは、正義扱いされない。

例えば、集団内の困った人を親切に助ける人は、集団プラス存在であるが、それだけでは「いい人」止まりである

彼または彼女が「正義であるためには、集団にとっての悪への対抗手段になりうる必要がある。そのとき初めて「正義」とみなされる。

平たく言えば、みんな善行を受けて有り難いと思う気持ちが薄れているんだよ。

代わりに、悪への怒り、憎しみ、悔しさが増大している。だから、その気持ちの代弁者をみんなが求めている、ということなんだ。

から、悪への怒りの雄弁な代弁者が現れると、一斉にわっと歓声があがり「正義」扱いされる。

代弁者じゃなくとも、対抗手段になりうるならOK。例えば、模範生の美しい姿に言及することは、落伍者への攻撃手段となりうるので、その模範生は「正義」となる。

この正義の扱いに異議をとなえるとすれば、2点考えられるだろう。

1つ目は、正義が相対化され過ぎている点。すなわち、自分たちだけが正義と思い込むことの危険性だ。マクロ視点が欠如してしまう。

2つ目は、不純な正義の理由づけに関して。すなわち、純粋プラス行為正義とみなすのではなく、悪の反対を正義定義する危険性だ。

どちらも一理あるが、さしあたって被害が大きいのは後者だ、と俺は考える。

理由は、マイナスの反対をプラス定義しても、それが本当にプラスである保証はなくて、むしろマイナスになることも少なくないから。

例えば、競合他社に対抗できる商品を開発したチームは正義とみなされるが、その2社が熾烈な競争を繰り広げている間に、

第3のメーカーが全くベクトルの違う商品を開発して大ヒットを出すかもしれない。真っ正面から戦わない可能性を考えておく必要があるってこった。

また、競合他社と熾烈な競争を繰り広げたあげく撤退しなければならなくなった時の多大な損失も考えておく必要がある。

目の前の敵に勝てばなんでも良いというバカな話ではないのだ。本当にそれが自社にとってプラスなのかを考えねばならない。

学校イジメにしても一緒。イジメを無くした教師は学校にとって「正義」だが、その「正義」感が行き過ぎて

教師陣がイジメに過敏になりすぎると事が大きくなる恐れもでてくる。「善意」は本当に集団プラスか?

マイナスの反対をプラスと考える発想ではなく、直接プラスを考えないと。

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