人間を罪人にするのは何かと長い事考えていた。
結論は被害者意識。
「自分は害されている」という認識が、害への反撃というかたちであらゆる行動を正当化する心理を生みだすパターンが最たるものと感じた。
具体的な個例を挙げていくときりがないのでひとからげに言っちゃうけど、社会的環境そのものが必ず人を害する。
人をというか、人の自由を。
社会契約論とか見てると、人間同士の争いによる害を避けるために、ある程度自由を制限してお互い快適に暮らせるようにしましょう、みたいな話が根本にあるのが判る。
でもそこから「快適さ」が抜け落ちたら?
快適だからこそ不自由を我慢できたのだ。不自由の上に不快さまでもがあったら不公平感が一気に増す。
それどころか、不自由に加えて快適さが無い(けど不快ってほどではない)くらいでも不公平感は増す。
自由と引き換えてまで欲しいのは快適さであり、快適さが無ければ特に積極的に不快でなくても不公平だという考え方が可能だからだ。
「だったら自由に振る舞った方がいい、自由に振舞いたい」という理屈に到達し、人は奔放になり始める。
例えば就業面でより個人の時間を大切にするとか職につかないで金を稼ぐ方法を考え出すという方向の奔放ならまだしも、その自由への欲求が公共の場におけるマナーやモラルの欠落という最も簡易でわかりやすい社会契約破棄の方向に向かっているのが非常によくない。
連鎖的に加速度的にマナーやモラルは「守ったもの負け」の欠陥ルールに堕し、それらを守ることでこそ生みだされていた快適さがどんどん削られて行ってしまう。
非常識な人間の言動に迷惑したという旨の体験談をネットに書き込む人間がいる。
彼らの言において、その非常識な迷惑人間が当の非常識な行為を咎められた際に、抗弁して「ズルイ」と言ったというケースが非常に多い。
「ズルイ」とは「不当だ」ということだ。「迷惑人間」らは己を何らかの不当性を被っている人間で、その回復のために行動しただけと信じてやまない。
本当はひとつだけ何とかできそうな方法があって、それはその迷惑人間のために心から力を尽くしてくれる人間がいてかつその誠意が迷惑人間の心を打って改心させるというものなんだが、被害者意識に凝り固まっていると真っ当な誠意みたいなものはまず受け入れられない心理状態になっているし、近頃では親兄弟でもそんな人間に寄り添って誠意を尽くすなんてアホらしいからやめろ、まずはしかるべき罰から始めろみたいな風潮になっているから絶望的だ。
でも本当は彼らの自分は損なわれているという感覚はどうにかしてやるべきなのだ。
それにとらわれている限り彼らは反省できないし行動を改められない。自分は損なわれた自分のためにするべきことをやっているだけという理屈から出て来れない。だから例え警察から口頭注意を受ける段階になっても、その引き金になった被害者を逆恨みする。そしてとどめの一撃を加えようとして、良ければ堀の中、悪ければ本当に一撃加えて取り返しのつかないことをしてしまう。
誰かが「あなたは不当には害されていない、欠落があるというなら一緒に埋めよう」と言ってやらなきゃ、「あなたの耐えがたいその苦痛を私が分かち合おう」と言ってやらなきゃ、螺旋は終わらない。