昨今の法改正でますます立場の危うい泡沫派遣社員だし、ちょっと前にはどん底のメンヘル、数ヶ月生活保護のお世話にもなったし、
今は寛解して社会復帰したけれど、一生精神科医に通院し続けることが確定してる。
おそらく、今までの人生で何度も味わった身を焦がすような様々な熱狂に飛び込むようなことはもう出来ない。
釣堀の傍で、人々が大魚を吊り上げるのを眺めやる人生。
私がご相伴に預かるのは、他人が見れば撒き餌の取りこぼしのような事柄かもしれない。
でも人生が楽しくて仕方ない。
仕事や趣味、なんてどこか一つじゃなくて、この人生全体が楽しくて仕方ない。
精神病む前…というか病んでることを自覚する前は、ものすごく小心で、周りに迷惑掛けないように掛けないようにって気を使ってた。
もともと頭も顔も体も出来のよい人間ではないとは思ってたから、そのように見えないように取り繕いながら、内心はいつも縮こまってた。
でも発症して、病名が確定して、これから再発症を防ぎながら生きていくためにいろいろ考えてった末に、
自分がどうやっても社会や家族に対して掛けてしまう迷惑の下限、みたいなものについて覚悟ができたというか、
諦めがついたというか、しかたないんだなぁ。という踏ん切りがついた。
そしたら、人生が楽しくなってきた。
今まで、土を踏みしめるとき踏み潰してしまうかもしれない虫のことにまで気を回してたのが、
突然、(それが柵の中であろうと)思うようにスキップしていいんだって気づいたみたいな心境だった。
ごく限られた範囲でも、自由に走り回れる場所、というのを認識できたのは初めてだった。
相変わらず、私は自分の症状を日々観察して、定期的に専門家に意見を仰いで、危うい橋を渡ってたり日常の制限は多い。
けど、逆に言えば手が伸びる範囲の幸せは思う存分味わえる。
自分が望むことに注力できる。
もともとそれほど強くは望んでいなかったいわゆる「幸せ」を、世の中がそうだからという理由で追い求めなくてもよい、というのはすごく自由だ。
本当は世の中のすべての人が、そうであるべきなんだろう。
義務や責任で幸せを選ぶんじゃなくて、選び取ったそれを、ただ自ら望んで得た、得られた、それだけでそれは幸せなんだと言えるのが、本当の自由なんだと思う。
社会的には不自由といわれる身になって初めて自由になれたのはなんだかとても皮肉なことだ。
とにかく私は幸せだ。
両親は自分がこのような人生を送ることを手放しには喜んでないだろうけれど、
このような人生でなければ私はきっと自分が幸せだと思って生きる時間がもっと少ないまま終わってしまう人間だったと思う。
そんな気持ちをこめて、誕生日に両親と初めて外で酒を飲んできた。
父は還暦を過ぎてからすっかり酒に弱くなって絡んできて鬱陶しいし、母は年を考えたら驚異的なザルっぷりで見てるこっちが不安になった。