こういう書き間違いって、無意識に書き間違えた対象への思いがインクと共に滲み出ると思う。
大学時代をアメリカで過ごした私にとって、海外はもっと身近なものだと思っていた。でも、どうやら、自分にとって海外とは、単に「海の外」ではなく、「界(さかい・区切り)の外」のようである。
と言うより、渡米して以来、「普通」というものなど存在しないのではと思うようになった。渡米してまもなく感じた違和感は、ファッションなど日本では「普通」に感覚的に捉えられているものが、全く通用しないという事実だった。キャンパスでは兎に角日本人が浮いて見えた。すれ違い様に向けられるアメリカ人のバカにするような視線は冷たく感じられることもあったし、影では「日本人男性のファッションはゲイっぽい」だの「みんな同じ髪型ででかい頭をしている」だの言われていることも知っていた。その上私には、アメリカ人たちのファッションセンスはとても受け入れられるものではなく、口に押し込まれたとしてもとても飲み込めるシロモノではなかった。嫌だった。
でも、それから数年。私のような「異物」でも自分の腹の中に取り込めてしまえるアメリカの大きさみたいな物を感じれるようになり、以前より気にしなくなった。それよりも、アメリカという国が与えてくれる知識や時間に興奮した。自然の美しさや、人々の包容力、オープンさを感じられるようになった。そして帰国する。
すると見えるのである。
日本人の美的感覚というか、日本のメディアとかが打ち出そうとしている美的感覚だとか今まで普通の事として捉えられてきた物が「違和感」として押し寄せてくるのである。そしてその美的感覚を、日本の業界が日本にいる外国人に押し付けているように感じられることがある。あくまでも例えばなんだけれども、日本のCMに登場する白人女性たちがしているような服装や、メイクをしているアメリカ人女性を私は少なくともアメリカで見た覚えがない。彼女たちは美白など追求しない。もっと小麦に日焼けした肌やセクシーさを追求しているように私には思われた。でも、日本のメディアに登場する白人女性たちはみな「白人版日本女性」達である。ある洋服量販店のサイトなど特にひどい。(※念のため、美白を追求することが間違っているということは全く思っていません)
そりゃ、日本という市場で活躍しているモデルたちなのだから、日本人の感覚に合わせるのは当然というのは分かる。でも、その為に自国で幼少から培ってきた自国の価値観・「普通」をアンインストールされ、日本独自の価値観・「普通」をインストールされなければいけないことは、私にはとても耐え難いことではないかと思われるのである。口に押し込まれたとしても、飲み込めないシロモノではないかと思われるのである。
海を超えて海外に行く時、そこには海よりも広い「価値観」や「普通感覚」という界(さかい)超えなければいけないように思われた。
そして、ある日、漢字を書き違えた。
(※幸せは価値観云々だけで測れるものではないと思うし、たとえ日本にいる外国人たちが価値観の違いからくる違和感に苛まれることがあったとしても、”総じて”幸せであれば良いとは思います。ただ、この文章の主題からずれるので括弧書きにしてみます)