2022-11-02

もはや、公共空間が「時」を提供する必要はないのではないか

役所公園商店街といった公共空間には必ずといってよいほど、高いところに掲げられ、大きくそ文字を記した「時計」というもの存在する。

しかし、今や、そういった公共空間が仰々しい時計という装置によって、大掛かりに「時」を提供する必要があるのだろうか。

個々人には、古くからある懐中時計腕時計、今やスマホマストアイテムであり、誰も「時」を知ることに苦労していない。

そういえば、時刻表に追われる公共空間代表例、すなわち、駅においても、その空間から時計撤去されつつあるというニュースがこないだあった。

いわんや、普通公共空間をや。公共空間にあるあの時計はもう、本来的な必要性を失い、街の中の単なる意匠にすぎないとも思えるのである

しかし、私はこれを公共サービスの減退とは捉えていない。

すなわち、公共空間における時計喪失は、マイナスの側面ばかりではない。

なぜなら、時計喪失は、公共空間時間から解放する手始めの手段だとも言い換えられるだろう。

例えば、子どもの頃、夕暮れる公園時間を忘れて遊具遊んだ記憶という、実際には存在しない記憶を思い出してみよう。

世の中では、大人ひとつ定義として、「常に時間に追われる存在」というものもあるらしいが、その解放にも、公共空間における時計喪失が役立つのである

公共空間時計が無ければ、公園では時間を忘れて球技をし、商店街では時間を忘れて買い物をし、役所では時間を忘れてて閉庁に間に合わず、というふうに色々な効能が得られるはずだ。

すなわち、子どもの頃の、時間を忘れて何かに熱中して楽しかった嬉しかった、あの記憶が、時計をなくすことで再現できるのである

まあ、実際には存在しない記憶なのであるが、細かいことはどうでもいい。上記のような大人定義など誰も言ってないことも、もはやどうでもいい。

まりは、公共空間における時計喪失は、そういう意味で、様々な練られ考えられたであろう意匠よりも、素朴で牧歌的空間演出に役立つはずだ。

また、さら多面的見方をすれば、この現象は、個別的な「時」を持つことで、公共として提供される「時」に打ち克つことができたのだとも言える。

例えば、公共空間環境音楽とともに押し付ける「12時」と、私のスマホが示す「12時」は全く意味が異なるのである

何事においても多様性が重視される昨今、時刻においても、その意味多様性は保持されてしかるべきだ。

当然、その値は常に一意に定まるものではあるのだが、提供形態は一意でなくてもよい。

「時」が、個人の持つデバイスによって、個別具体的な形で提供され、公共空間が「時」を提示しなくなった現状は、多様性の為せる現象ひとつだとも言えるのである

一意の値であるはずの「時」も多様性を持てるようになった、という点で、世界価値観進歩が感じられる。

公共空間はむしろ積極的に「時」の提供を辞めてよいのかもしれない。時間から解放多様性のために。

というか、スマホに限らず、懐中時計などは昔からあるものなのに、なんで公共空間時計で「時」を知らせる必要があったのだろう。

どうして、人々にとってわかりきった知識である「時」を大々的に提供していたのだろう。不合理に感じる。

そう思うと、そもそも本当に公共空間時計などあったか不安になってきた。役所公園商店街など、実際には時計など無かった気もする。

なぜなら、私はスマホで時刻を知っていたから。なんなら、公共空間に居たにも関わらず、スマホを見ていて、公共空間」という空間を把握していなかった気がする。

から結局は、公共空間における「時」の提供など、実際には存在しない記憶なのかもしれない。

そうだ。それこそ、水時計で時刻を知るような大昔でもあるないし、勘違いにもほどがある。

存在しない記憶が変化しつつある形態という存在しない状態に、屁理屈をぶつけるというふざけた文章を書いてしまって反省

見上げると、いい感じの時間なので、さっさと帰って反省しながら寝るとしよう。おやすみなさい。

  • 分かるような分からないような話 たとえば、元増田の言う「公共空間に時計が無くなる」ことのメリットの一つとして挙げてる「時間を忘れることができる」だけど、公共空間に時計が...

  • 駅では時刻表まで無くなってるらしいけど

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