2017-01-08

悲しくって

今日も僕は生きている。

生きていることは、いいことだろうか。生きることはそんなに大事ことなのだろうか。そういうことを思うことが、最近多くなっていることに気がついた。僕が生きている今日は、誰かが必死になって生きようとしても生きれなかった一日だから大事にしないといけないだとか、生きているだけで丸儲けだとか、いろいろ言うけれど、でも僕はもう生きていることがとてもしんどいというのは、これは動かせない事実なのである

僕が好きなのは「考える」ということだ。わからないことがあったらそれがなんなのか考えて、みんなで色々と意見を言ったりして、少しでも正しい方向に進みたい、そういうちょっとした希望みたいなものが好きだ。正しいというとまた何を持ってして正しいとするかという問題が持ち上がるけれど、それはまたそれとして正しいってなんだろうかとか、そもそも正しいことを求めることは必要なのかどうかとか、そこからまた話を始めれば全部おっけーなのであって、別に僕が考えていることを肯定してほしいわけでもないし、全くもって違う意見の人が居たほうがむしろ楽しい世界は僕が思うよりもっと広い。

しかしそれを「まあまあそんなに考えていると体が持たないよ」とか「賢く生きなさい」なんて言われる場合が多いもんだから、まあ僕としてはやって行きづらいってわけである。なんとなーく上手くごまかして生きている方が楽しいと、彼らはそういう。実際問題お金を稼ぐということは、一部の能力の秀でた人以外は少しは我慢とか、自分ではどうしようもならないことを受け入れて、それこそ「うまーく」やっていかないと回らないんだと。それも確かにわかるのだ。僕だってそのぐらいはわかるのだけれど、そうやってある意味で「ごまかして」生きていることって、どこにゴールがあるんだろうかとか、考えてしまうわけである

なにかかっこいいと思う服を買ったり、美味しいものを食べたりすることは、たしか楽しいのかもしれない。けれどそれって結局その瞬間が楽しいためにいろいろとやっているだけであって、服をかって何年もすればまた他の服が欲しくなるし、ご飯は食べて時間がたてばお腹が空く。そして食べればなくなる。当たり前だけれど、そう思うとそういった快楽を求めるために生きるんだっていうことを認めることは、一種人生に対して麻薬をつかっているというか、人生に向き合っているといえないんじゃないかと思うのだ。

少なくとも、僕にはそう思われて仕方がなくって、そうして僕は今日も少しづつ生きる気力を失っていく。やることはたくさんあって、家の掃除だったり、論文を書いたり、勉強をしたり、本を読んだり、仕事をしたり。色々あるけれど、結局もうそれらをやっていってその先にあるものが僕には価値があるものに思えないのだ。もう僕は十分に物質的にも恵まれているし、勉強もさせてもらってある程度は賢く(まだまだなのは重々承知だけれど)なったと思う。しかしそれゆえに見えることが多くって、そして世の中は僕が思っているよりももっと、せこいというか動物的であって、そのなかで僕は生きていける気がしないのだ。

いや、ちょっと違っていて、僕はこの世の中に適合することができなかったのだ。僕のふるまいは、僕から見てこの社会のと言うか、人間の行動として明らかに劣っていてるというか、それは嫌われたり除け者にされるよねといった行動、発言をしていることが度々ある。そしてそれを僕も自覚している。でもそれを修正することができないのだ。みんなは上手くやっているようなのだけれど、僕はどうしてもそれを直して、上手くやっていけないのだ。これは甘えだとか言われるのだろうけれど、でももう駄目なのだ

そして今日もいちにち、親と世の中に与えられたお金場所社会的身分を貪って薄い薄い内容の一日を過ごしている。

僕はとても悔しくって、悲しくってしようがない。

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