http://b.hatena.ne.jp/entry/biz-journal.jp/2014/06/post_5119.html
このコメント欄を見て思ったこと。
前々から、インターネットではよく「法で定まっていない倫理や生活スタイルの問題」=「個人により正解が異なる問題」で炎上しがちだなと感じていた。(結婚やモテや出産やライフプラン全般の問題はよく燃えるとも言う)
なぜだろうか。
僕は、「皆一つの問題に対し、結果だけ見て、個人の意見を言い、さらに違う「個人の意見」で反論するから」なのではないかと考えている。
個々の人生は、年齢や産まれや親や土地、世代や性別によって異なることに異論がある人はそんなにいない筈だ。
最初の産まれを克服するのが人間だ、努力することに意味がある、といわれてしまうとそういう価値観もあるので何とも言えないが。
見聞きしたり、読んだり、他人の意見を取り入れることは出来ても、「その人一人分の人生とその人の思考」を丸々理解するのは、現在のテクノロジーでは無理だと思う。
人の意見とは、どんな過程を歩んでどんな事をそれに対し感じてきたかということに裏づけされている。
それを大抵学習や努力、成功体験などと社会では呼んでいる(と、個人的に考えている)
とくに「法で定まっていない倫理や生活スタイルの問題」=「個人により正解が異なる問題」に関してはこれが顕著なのではないか。
そしてインターネットでは、特に、twitterやはてなのような短いコメント欄では、そんな自己背景を説明できない。
「このような人生を歩んだこのような年齢なのでこのような意見を持ちます」というのが生活スタイルの問題においては重要な意味を持つのに、短い文章が意味を持つ場所では「このような意見」しか言うことが出来ない。
「このような意見」をいくら見聞きした所で、それはあんまり意味がない。
なぜならそれを聞く人間にとってはその意見は自分の辿った人生のルートの中では、たどり着くのがおかしい意見だったりする場合があるからだ。
ルートの選択、つまり他人がどうしてその意見になったのかを聞くことにより、やっとはじめてその意見の善悪の判断や是非がつくんじゃないだろうか。
「このような人生を歩んだこのような年齢なのでこのような意見を持ちます」という様々な人間の意見を、たくさん偏らずに聞くことによって、寛容な人が増えるのではないか、等と賛否両論のコメント欄を見て思う。
勿論、話題になる記事自体の情報が少ないってこともあるし、さらにいうと、そもそもコメント欄やインターネット自体にそんな「他人の意見を聞く」なんて意味自体ないのかもしれないのだが。自分の人生も正しさを他人にも丸ごと適用できると考えている人が多そうな印象があるのは、とても息苦しい。
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