2014-06-15

奨学金インターネットと「意見」について思うこと

http://b.hatena.ne.jp/entry/biz-journal.jp/2014/06/post_5119.html

このコメント欄を見て思ったこと。

奨学金問題の記事は大抵高ブクマ炎上状態になる。

前々からインターネットではよく「法で定まっていない倫理生活スタイルの問題」=「個人により正解が異なる問題」で炎上しがちだなと感じていた。(結婚モテ出産ライフプラン全般の問題はよく燃えるとも言う)

なぜだろうか。

僕は、「皆一つの問題に対し、結果だけ見て、個人の意見を言い、さらに違う「個人の意見」で反論するから」なのではないかと考えている。

個々の人生は、年齢や産まれや親や土地世代性別によって異なることに異論がある人はそんなにいない筈だ。

皆同じだったら機械しかない。生物には差異がある。

最初の産まれを克服するのが人間だ、努力することに意味がある、といわれてしまうとそういう価値観もあるので何とも言えないが。

人一人の人生では人一人分の経験しか積めない。

見聞きしたり、読んだり、他人の意見を取り入れることは出来ても、「その人一人分の人生とその人の思考」を丸々理解するのは、現在テクノロジーでは無理だと思う。

人の意見とは、どんな過程を歩んでどんな事をそれに対し感じてきたかということに裏づけされている。

それを大抵学習努力成功体験などと社会では呼んでいる(と、個人的に考えている)

とくに「法で定まっていない倫理生活スタイルの問題」=「個人により正解が異なる問題」に関してはこれが顕著なのではないか。

どう生きてきたか、どう産まれたかにより、意見は変わる。

そしてインターネットでは、特にtwitterはてなのような短いコメント欄では、そんな自己背景を説明できない。

「このような人生を歩んだこのような年齢なのでこのような意見を持ちます」というのが生活スタイルの問題においては重要意味を持つのに、短い文章意味を持つ場所では「このような意見しか言うことが出来ない。

「このような意見」をいくら見聞きした所で、それはあんまり意味がない。

なぜならそれを聞く人間にとってはその意見自分の辿った人生ルートの中では、たどり着くのがおかし意見だったりする場合があるからだ。

ルートの選択、つまり他人がどうしてその意見になったのかを聞くことにより、やっとはじめてその意見善悪の判断や是非がつくんじゃないだろうか。

「このような人生を歩んだこのような年齢なのでこのような意見を持ちます」という様々な人間意見を、たくさん偏らずに聞くことによって、寛容な人が増えるのではないか、等と賛否両論コメント欄を見て思う。

勿論、話題になる記事自体情報が少ないってこともあるし、さらにいうと、そもそもコメント欄インターネット自体にそんな「他人の意見を聞く」なんて意味自体ないのかもしれないのだが。自分人生も正しさを他人にも丸ごと適用できると考えている人が多そうな印象があるのは、とても息苦しい。

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