はてなキーワード: 低学歴とは
高学歴ゆーても地頭がいいタイプや人生設計がちゃんとしてるタイプじゃなくて、単に学生時代に時間が余ってたから勉強に使ってただけのが過半数だよね。
親ガチャ要素としてはバイトしなくても十分な小遣いがあるかどうかってのはあるんだけど、それを除けば単に学生時代の時間の使い方が勉強にたまたま偏ってただけって人が多いかなあ。
消極的な高学歴と言うか、真剣に考えて高学歴になったんじゃなくて、ただ漠然と生きていた結果でたまたま勉強沢山してただけのタイプ。
こういうのっていざ他に熱中できるものを見つけるととたんに勉強しなくなるし、別に効率よく動けるわけじゃないから社会に出た後は期待外れって言われがちなんだよなあ。
まあでも高校レベルってまだまだ基礎学力の領域だから、高校時代の勉強が足りてない≒基礎学力がないってことになるから、おおむね流れさて高学歴の奴らは流されて低学歴の奴らよりは使えるんだよね。
「俺は学歴あるからなー」って変なプライド持ってる奴はあんま使えんけど。
まあ低学歴かつ勉強嫌いで「俺は勉強なんかに頼らねーからなー」と言って自分のショボイ経験を過大評価してるカスに比べると全然マシ。
人類の勉強がもっと効率化して、今高校生がやってる勉強を中学生がやるようになったら学歴に対する見方は大きく変わるんじゃないかなと。
こんな衰退しまくっててホルホルしてて痛いやつって思われてるかもしれないが
俺は帰国子女だからわかるが日本人の女、教養なさすぎ。勉強しなさすぎ。
STEAM時代に文系にしか進めないってそりゃAIでリプレイス可能な低賃金事務職にしか就けないわ。需要ないし。
低教養低学歴低賃金がデフォだから未だに自立心がない。自覚ないかもしれないが自尊心なさ過ぎ。
無自覚に金を恵んでくださいって土下座してるってのわからないかな?
低学歴って感じやなぁ…
これは1リアルかも知れん。
弱者男性問題においては『排除』されていった結果、そういう『層』が形成されたと。
ただね、少し言いたいことがあるんだけど、まず『排除』の結果弱者男性という見かけ上の『層』が出来上がっているのであれば、『排除』の構造を正せば『層』そのものが無くなると言う。それはいいよ。
でも一弱者男性(自称するものでもないが)として言わせてもらうと、フラストレーション感じているのは正直そこではないんだよなあ。
もちろん将来的に弱者男性という『層』が無くなるほど『排除』の構造が是正されれば、それは素晴らしいことだと思うよ。ただそれは少なくとも今すぐには無理だし、そこに到達する迄の弱者男性はどうしてもあぶれてしまうのを止めることはできない。つまり『手遅れ』の人間には響かんよなあと思ったり。
ちょっと話がズレたな。うん、個人的には『低学歴・低所得・伴侶無し』という『排除』の結果の地位には別に不満はない。と言えばウソだが、まあしょうがないかとは思うし、実際それはそこまで苦ではない。
じゃあ何が気に入らないのかといえば、はてなでもツイッタでもいいけど、『弱者男 性』というたまたま形成された仮初めに過ぎないはずの『層』に何故か投げかけられる心無い言葉の数々、なんだよなあ。やれ「弱者男性はミソジニー拗らせたアンフェ」だの、「親に頭叩かれすぎたせいで人権も理解できない低能バケモンミソジニーおじさん」だの、『チー牛』とかも併せて検索するとまさに地獄の様相を呈している。
「どこかの弱者男性によっぽど酷い目に合わされたんだなあ、気の毒に」と少し思う一方、「知らねんだよ、十把一絡げにして叩くんじゃねえよクソが」とは沢山思う。ここまで好き勝手叩かれる『層』として確立していると、「あくまで差別でなく排除なので、排除構造を解消する方向で動くべき」とばかりは言い難い気がするんですよね、個人的には。
「弱者男性」は「差別」されているのか? 社会から“排除”されてきた「低学歴中年男性」の支援に必要な視点
そもそも男性に生じている問題を「排除」ではなく「差別」の文脈で語ることは間違っています。差別とは、歴史的な構造のなかで、ある特定の属性を持ってきた人たちに対して社会が不利益を負わせてきたことです。この意味での「差別」は女性が受けている一方で、マジョリティ側の男性は受けていません。
kakaku01 家父長制への回帰を求める声は聞いたことがない。差別ではなく排除というのもよくわからん。むしろこの記事のように「お前たちの問題は優先度が低い」とする態度が問題の根幹では。
伊藤氏には間違っている点と、批判側が理解していない点の両方がある。
まず間違っている点については、弱者男性への「差別」と言うべき事態は確実に存在しているのに、差別ではないと言い切ってしまっていること。一番わかりやすい例としては、婚活パーティが年収で足切りされていることや、女性からも年収で値踏みされていることなど、「稼ぐ能力の低い男」への差別的な視線や扱いである。ほかにも、同じ「40歳非正規独身」に対する世間のイメージについても、女性では「そう言う人も普通だよね」となるのに、男性だと「この人やばくね?大丈夫?」と見られるだろう。これを「差別」と表現していけない、ということはないはずだが、伊藤氏は差別ではないと言い切ってしまっている。
他方で、批判側がきちんと理解していないのは、「排除」という言葉の意味合いである。伊藤氏が言っているのは、「弱者男性」とは、世間的に一般に期待されている「男性」の社会的地位から落ちこぼれてしまったという問題であって、「男性」という属性そのものが蔑視されているわけではないということである。つまり、「女のくせに」は女性全般へ見下しがあるので差別だが、「男のくせに」はむしろ男性の社会的地位が高いことを前提にしているので差別ではない、ということになる。
社会学や社会政策とか学んでいれば、「排除」と「差別」を慎重に使い分けるべきことを理解できるけど、普通の人には伝わりにくく、言葉遊びに見えることも確かで、一般素人向けとしては伊藤氏の書き方は適切ではなかったと思う。
(追記)
婚活パーティの年収足切りは「排除」ではないか、という突っ込みが複数あったが、厳密に「排除」「差別」を定義すれば全くその通り。ここで言いたいのは、年収でその個人の全人格を評価することを「差別」という言葉で訴えたくなる人がいるのは、別に当たり前ことで、「差別ではない」と切り捨てたら反発する男性もそりゃいるだろう、ということ。
女性は非正規労働が多く、社会全体の構造として差別を受けていることは確かだが、非正規や低所得であること自体による蔑視を受けることは少ない。低所得であること自体で、異性のパートナーを見つけることが難しくなるということも基本的にはない。男性は社会全体の構造としては優遇されている面があることは確かだが、そのために低所得者であることで受ける蔑視は強くなる。そして低所得であること自体が、異性のパートナーを見つけることを困難にしている最大の原因ともなっている。
そのように、男性は低所得であることで全人格を下に評価されてしまう構造は確実にあり、そのことを「差別」と表現したくなる人が出てきても、それは全く不思議でも何でもでもない。伊藤氏の根本的な間違いは、言葉の定義を共有させることなど不可能な匿名ネット言論を対象にしているにもかかわらず、学者の「排除」「差別」という定義を持ち込んで、「弱者男性は差別ではなく排除の問題」と言い切ってしまったことにある。
(追記2)
これはアウトだろう。「差別って言うけど、しょせんはあなたの主観ですよね」という、ひろゆき的冷笑主義でしかない。
(1)他者の「差別」の定義や用法については、ネットの素人匿名の議論であろうが決して頭ごなしに否定しないこと。
あんまり多く語られてないが、初期のゴールデンカムイは明らかに「山賊ダイアリー」とかのジビエブームの流れに乗っていた。
公式切り抜きがネットのミームになったり、そういうところから徐々に認知度が上がっていった作品だ。
今では評価が固まり過ぎて「多様性が」とか「歴史評価が」とか、批評的にお利口な語り口でばかりその魅力が語られるが、実際に初期から連載とその人気拡大を追っていると、ゴールデンカムイにはそれだけでない多様なフックと、それをタイミングよく引っ掛けるそれこそ漁師の神業がふんだんに見られた。
ゴールデンカムイの受容(需要)の変遷をまとめることによって、長期連載漫画が当たるためにどれだけ多くの仕掛とチャンスを要するのか、改めて考えてみたい。
2014年8月、連載始まる。 増田はこの頃はまだ読んでいない。
1話ははっきり言って、刺さる人には刺さるのかも知れないが、古臭い冒険ものの空気しか感じられない。
「露助」と差別語を使う戦争帰りの主人公。囚人を殺して皮を剥ぐ猟奇趣味。まだ頭身の高い美少女のアシリパ。
一部のネクラには受けても、一般には忌避される湿っぽいダークさが作品を包む。
キャラクターも、薄汚い囚人たちに、死をも恐れぬ兵隊、そのトップの怪人中尉と、マイナーさは否めない。
しかし、連載数話目から、この漫画にはちょっとだけ流行の要素が入ってくる。「ジビエ」である。
当時は「山賊ダイアリー(2011〜2016)などの猟師ものが密かにブームを迎えていた。
あるいは、同時期(2011〜2019)のメジャー作品として荒川弘の「銀の匙」など、「命をいただく」をテーマにした漫画も人気を博していた。
ゴールデンカムイはこの流れに乗って、「冒険をしながら猟師生活を見せる」というストーリー構成で注目を集めていくことになる。
ニコニコ静画のタイムスタンプによると、ゴールデンカムイの公式切り抜き漫画「アシ(リ)パごはん」第一回が掲載されたのは、2015年1月となっている。
初回は「リス」。可愛らしいリスの皮を剥き、ミンチにしていく様子がコミカルに描かれるシーンを作中から数ページ切り抜いて公開した公式の切り抜き漫画である。
これが、受けた。
チタタプ、オソマ、ルイベなど、アイヌ語の食べ物の名前が広く知られるようになり、アシリパがアザラシをしとめるシーンなど、コミカルなカットがネットミームにもなる。
しかしこの頃もまだ、一般受けする漫画とは言い難かっただろう。なにせ「山賊ダイアリー」のような、「命をいただく」テーマ自体が重すぎる、マイナーメジャーのものだ。キャラクターも男臭い変態だらけで「ホモソ受け」という感じは強く、牛山も女を武器にする卑劣漢だった。(このマンガがすごい! 2016 オトコ編 2位、マンガ大賞 2016 大賞)
増田自身、この頃作品を知り、アシリパごはんは面白く読んでいたが、金塊探しというメインストーリーにはまったく興味が持てず、長いこと本編は読まずじまいだった。
10巻頃まではこの漫画はこういった男向けの要素だけで進んでいく。変態的な囚人、覚悟を決めた簡単に死ぬ兵隊、「命を食らう」生活感。
しかし、ここにきて大確変要素が加わる。プリンス鯉登、心に闇を抱えた尾形などの、圧倒的に乙女受けなキャラクターやエピソードが増えたのだ。
彼らのシーンを見た瞬間に、増田は「あッ、これはジョジョみたいに腐女子アンテナにひっかかるゾ」と確信した。
今となっては当たりも当たり。SNSで「ゴールデンカムイ」を検索すれば9割女性向け同人イラストという現状への変動がこの瞬間に確定したのである。
そして本作はこの勢いを掴んだまままさに滝を遡る鯉のごとく大作へと変貌を遂げていく。
シリーズ前半のクライマックスとも言える網走監獄編を見事なテンションで描ききった本作は、アニメ化(2018)、手塚治虫文化賞 マンガ大賞(2018)、大英博物館の特別展においてキービジュアルを飾る(2019)など、大躍進を遂げる。
アニメシリーズは海外配信も好評で、海外にもファン層を広げる。
大英博物館の展示では、「女性を表している点。(中略)アイヌという少数民族の文化を描いている点」など「ダイバーシテイの理念を体現する作品になっている」を評価されキービジュアルに選ばれたとされる。
「多様性」や「文化歴史描写」に優れた名作という評価は、この段階で確立された。
網走監獄編で大きな波をひとつ越えたあと、人によっては中だるみと言われる樺太編に入る。
すでに確立された名声を揺るがすような劣化も見られないが、特に新しい要素が受けたわけでもないので話題は少なくなる。
このあたりで増えた要素と言えば谷垣を中心に多用される「ホモギャグ」である。
増田の受け止め方としては、「文化的な名作」扱いに対する作者の反発と言うか、何かヤケクソなものを感じる。
宇佐美の「◯◯探偵」に至っては常軌を逸しているというか、ここだけをもってして「文化的な作品」として他人に勧めることは出来ないだろうと思う。
しかしこれもある意味で時代は掴んでいるのかも知れない。一部のラディカルフェミニストを中心に、この過剰な下ネタが「セクハラのミラーリング」として全面肯定される現象も見られた。ほとんどの人には、ホモソーシャルの笑いの延長にしか見えないと思うが。
清濁合わせのみ毀誉褒貶を越え、本作は2022年に連載終了を迎える。
作品としては大団円だったものの「文化的」という名声を得すぎた故の重箱の隅をつつくような批判が最終回のいくつかの描写につけられた。
単行本化に際してそのうちのいくつかは修正され、うるさ方もそれで納得したのか、今では「文化的」で「多様性」を表現した、歴史に残るすばらしい名作という評価がほぼ揺るぎないものになったように思われる。
しかしその8年にも渡る連載期間を省みれば、このようにさまざまなフックと変化で客を掴み、興味を維持し続けてきた結果のことなのであって、ただ「綺麗な作品」(と思う人もまあいないとは思うが)を描いたから評価されたというような単純な話ではないのだということは覚えておきたい。
トラバもブコメもだけど、「自分の趣味にあった部分」だけが評価の対象じゃないと許せないって思考回路のやつ、キツいわ。
「血なまぐさい男受けだけじゃ同人受けや海外受けまで広がらなかったよね」ってことが書いてあるのわからん? 日本語わからん?
根本的にこの文章で書いてあることが何かということが理解できてないと思うので、自分が機能的非識字だと認識した方が良いよ。
クライマックス付近の無料公開で認知を広げたのは書いといても良かったなとは自分でも思った。