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https://news.tv-asahi.co.jp/news_economy/articles/000352769.html
とりあえず、先生の名前と研究室でしらべたところ、東北大学の寄付講座とのこと。
寄付講座は企業や団体などがお金を出すから、大学の施設と名前を貸してねという講座。
そこの業績の欄に、歯科の商業雑誌への論文があり、手元にあったので、読んでみた。
装置の概要は、歯石を取るときに使う、超音波スケーラー(ピーッという音がして、金属で歯石を割りながら剥がす機械)の改良版。
論文には出てくる光の殺菌作用()と、特別な害がないこと(これは重要)が書いてあった。
結論として、これで歯周病が治るわけではない。あくまでも、歯石や歯垢をを取りながら、光で薬品を活性化させて殺菌をする装置。これまでも、水ではなく薬品を出しながら歯石歯垢を取る機器は多数あるので、それの類と考えて良い。
光はあくまでも補助的な部分と思われるので、その光と薬品に害がなければ、医療機器の認証が出るのも納得できる。(歯石、歯垢をとることは歯周病治療にとても有効。)
光で殺菌という考えも新しいわけではないが、効果が限定的なのもわかっている。バイオフィルムという細菌が作る塊の性状がその理由だが、簡単に書くと、うんこの内部を光と振動で殺菌することはできないということと同じだ。
口腔内では最近の餌と必要な温度と湿度は常に与えられるので、住みやすい環境(深い歯周ポケット、歯石、歯根の形態)があれば、少し残った細菌がすぐに増えて、元のようになる。
だから、この治療が普及すれば、歯周病から解放されるとか、そういうモノではなさそう。でも、マユツバな治療機器ではないから、少しでも治療が進歩するといいと思う。
オオアリクイみたいに美しくなりたい。
鏡の前に立って、そんな美しさを追い求めるのが私の日課だ。でも、実際のところ、それは簡単なことじゃない。オオアリクイの美しさって、外見だけじゃなくて、その動きや佇まい、そして存在感にあると思うんだ。
自然で悠然とした佇まい、他を気にしていないように見えて警戒を怠らない繊細さ、そして外見的な存在感。
ところで、私は表参道を歩く間にカフェラテを飲まないと死ぬタイプの女ではありません。
実際、コーヒーのカフェインに依存してるわけでもないし、流行りのカフェに通うことに価値を見出しているわけでもない。でも、オオアリクイみたいな美しさを手に入れるためには、何かしらの「自分らしさ」が必要なんだと感じた。
自分らしさって、どうすれば見つかるんだろう。雑誌やSNSで見かける「完璧な美しさ」は、ほとんどが加工されたもので、実際には存在しない幻影だ。それに比べて、オオアリクイの美しさは、自然でありのまま。その自然体が、本当に魅力的なんだと思う。
歩きながら、ふと考えた。もしかしたら、自分らしさって、無理に何かを足そうとすることじゃなくて、ありのままの自分を受け入れることなのかもしれない。オオアリクイだって、自分の美しさを誇示するわけじゃなくて、ただそこにいるだけで美しい。それって、とても素敵なことじゃない?
家に帰って、鏡の前で再び自分を見つめる。完璧じゃなくてもいいんだ。むしろ、不完全だからこそ、そこに美しさがある。オオアリクイみたいに、自然体で、自分らしくあること。それが本当の美しさなのかもしれない。
盗撮小僧は昔からいたが、発表する場所がないから一人で楽しむだけか、発表したとしても少女が見ないようなアングラ雑誌に投稿する程度で闇の中に留まった
それが今やネットで大々的に公開されyoutubeやエロアフィサイトで収益化される
少女の方もSNSするようになったので、直接嫌がらせする奴らも増えた
盗撮写真に精液ぶっかけた画像をDMで送るのが流行ったせいで陸上盗撮問題が盛んに語られるようになり撮影禁止の大会が増えた
嫌儲思想というか、クリエイターの神格化というか、そういう意識が強くて
そもそもメディアミックスが何のために行われるのか、誰が金を出しているのか、ってビジネスの観点が全くないよね
日テレも小学館も他のテレビ局も出版社も、別に原作者と原作ファンを満足させる為にドラマを作ってるんじゃなくて金儲けの為にやってるわけだし
ビジネスってのは金を出す人(ここではスポンサー)が一番偉いんだけど
そういう人たち、その前提がそもそも分かってなくて「原作者は神!だから原作者が一番偉いし尊重されるべきなのだ!!」で思考停止してる
でもビジネスってそういう構図で動くわけじゃないんだよな
こうやって「金儲けのため」というと嫌儲な連中が反発するだろうけど、世の中金なきゃ何もできんのよ
漫画雑誌だって維持できないし、売れるかどうかも分からないコミックスを出す事もできない
この作者だって小学館やそれ以外の出版社を利用して商業漫画家として活動してきたわけだし、これも商業雑誌で描いて商業コミックスとして出して貰った漫画だろう
出版社の「金儲け」を否定するなら雑誌は廃刊だしコミックスは同人誌として出すしかなくなるよ
個人的には好きなことだけやれる同人的な世界から資本主義化された出版業界に飛び込んだのは原作者自身なのだから(そしてそのおかげで金儲けもできているのだから)、金儲けを第一に考えて漫画家も働けば良いんじゃないのとは思ってしまう
それが嫌なら同人でやれば良い
例の報告書を読むに、セクシー田中さんのドラマ化にあたって原作者は
報告書を信じる限り、ドラマスタッフは原作を尊重して作業を進めたが、
原作者はスタッフの提示してくる脚本がその範疇を逸脱して改変されていると感じ、強い不信感を抱いたようだ。
原作者は「映像にする上で技術的、予算やスケジュール的に必要な改変」のみを考えており、
ドラマスタッフは「同時代のコンテンツとして原作未読のターゲットに受け入れられるようにすること」も含まれると(無意識に)考えていたのが原因だ。
報告書にある具体的な改変の例を元に考えてみよう
という内容に改変した。
その理由としてドラマ側は「近時の10代20代にはリアリティがない」「父親のリストラはドラマとしては重すぎる」というものをあげている。
つまりこのドラマのターゲットは現代の10代20代(の女性)であるわけだ。
こういったターゲッティングはドラマ制作が多額の予算を投じる事業である以上、多くの企画で設定されるものである。
また、公共の電波を使っている以上、圧倒的多数の原作を読んでいない人でも楽しめるものを作らないとならない。
そう考えた時に、大学進学の男女格差が縮み大幅に入学者数が減ったと報じられている短大は確かにターゲットにとって存在自体ががピント来ないものになっているし、
人手不足と法的規制でリストラが困難な現代日本ではリストラされるというシチュエーションはかつてのそれより深刻なイメージを伴う。
また、これに関連し原作者が「心底どうでもいい」と断じた「かわいい制服の私立高校に進むことが出来なかった」という改変も、
それが悪しきジェンダーロールとされていた頃よりも世界的に肯定的に受け入れられている現代的な感覚に照らして、
視聴者がその不条理に共感を得やすい強調表現として判断したのだろう。
ドラマスタッフはこうした現代の状況を鑑みて改変案を考えたのであって、
決して安易に思い付きで改変したわけではないのであろうが、
不幸なことに「原作者はそのような現代化自体を望んでいない」ということは気づかなかったのだ。
原作者が容認していたのは台詞を尺に合わせるとかロケの都合でシチュエーションを変えるとかそういったことであって、
アラサー女性をターゲットにした雑誌であるプチコミックの漫画をそれより若い女性に向けた作品にアレンジすることではなかったのだ。
日テレの報告書はテレビ局のドラマ製作を詳しく分析した希な資料として価値があり、
原作モノのドラマ化に際して改変の原因となる理由をまとめた表(報告書80P)はメディアに関わる人間は一読すべきである。
しかし上記にあげたターゲッティングのズレは言及されず「より面白くしようとするための改変」という漠然とした項目があるのみである。
しかし、このようなドラマに必要な面白さとはなんなのか、そのためにどんなことをするべきなのかということへの解像度の低さが、
俺は全く逆。雑誌連載リアルタイム読者なんだが、最初の普通のギャグ漫画だったときはまあ突出して面白くはないが「普通のジャンプのギャグ漫画」としてそれなりに楽しんで読んでた。でもプロレス漫画になったら急速に興味を失って全くスルーするようになった。元々ジャンプはギャグをメインに読んでたし、プロレスに限らず「誰が一番強いか」っていうことに一切興味無いので。『北斗の拳』をはじめとするストーリーものはあくまで「ズリネタとして消費できるかどうか」にしか価値を感じなかったし。ていうか別に今この漫画新たに読む必要なくね?プロレス好きのジジイ読者が昔を懐かしんで読むマンガでしょ。
新宿区で生まれ、その後は23区外に引っ越したが、ずっと東京都内から出たことはなかった。
小学校受験をし、私立の小学校を卒業し、そのまま中学受験をして、いわゆる御三家に合格し、中高一貫の女子校を卒業した。
まさかそこでここまで大きなカルチャーショックを受けるとは思っていなかった。
私は自分がいかに世間知らずだったかということを全く知らなかった。
まず、初めに、医学部生同士での「親って医者なの?」という会話に驚いた。
喉元まで出かかって飲み込んだ。
私の周りの医学部志望生は、7〜8割は親が医者であり、親が医者であるかどうかを確認する文化がなかった。また、親が医者でなかろうと、会社の社長だの外交官だのばかりなので、「あ、そうなんだ。」くらいで終わりだったのであるが、ここでは違った。
非常に面食らった。
まず今までの人生で親の所得の話になったことが一切なかったことに気がついた。
なんとなくタブーのような、下品なような、お金の話をするという文化が存在しなかったし、他人を「金持ちだから羨む」という人に初めて出会った。
そして気がついてしまった。私が今まで通ってきた道は、『子供の教育費に月7-8万の学費を払い、かつ年100万近くかかる塾に通わせることのできる所得の親を持つ人間しかいない世界』であったということに。
加えていうと中高一貫の女子校ではバイトが禁止されていた。(している人は一人もいなかった。)
私自身小4〜6まで塾に通い、高2〜浪人1年間もまるまる予備校通いをしている。
かかった学費のことを親は何も言わない。
「医学部に受かってよかった。」
それだけである。
またさらにびっくりしたのが、
どこかに遊びに行こう!となった時に
と言われたことだ。
「お金がない」という理由を遊ぶ時に持ち出すという文化に触れてこなかったように思う。
遊ぶ時にかかるお金は、その思い出に対して支払うものであり、いくらになろうと楽しければ構わないし、やりたいことをしてきたと思う。(というと高級ホテルでランチビュッフェに行きまくっていたかのような印象だがそういう意味ではない。)
遊びたい時に、「何をしたいか」ではなく「予算」が先に来る文化。
そんな文化があることも知らなかった。
というかむしろ、うちの親は常に「うちは開業医でもないし貧乏だから節約しないと」と言っていたので、私はどっちかというと貧乏なんだな。と思って生きてきていたのである。
現にユニクロ大好きだし、特売も大好きだし、ポイントカードもめちゃくちゃ持っていて端からポイントを貯めている。
田舎とはいえ、本気の田舎では多分ないのだろうが、はっきり言って今の暮らしは本当に耐えられない。
友達と遊ぶ時はテレビか雑誌で特集していた店に行き、大きくなってからは食べログの評価が高い店を探し、予備校終わりに疲れたら伊勢丹に寄って化粧品を買ったり、ルミネセールで爆買いしてみたり。
レビューがなさすぎることで、食べログで店を探すことがこんなに困難になるとは知らなかった。
地方都市なんだからデパートくらいあるでしょうというが、私は新宿伊勢丹で先行発売の化粧品を、エムアイカードのポイント10%還元を利用して購入したいのであり、そのついでにフェラガモの靴を物色したり、グッチの新作にケチつけたりしたいのである。
前にトリーバーチの靴(一番スタンダードな、黒の革靴に金のトリーバーチのロゴが大きく付いているやつ)を飲み会に履いて行ったら、「その靴イトーヨーカドーで売ってるみたいだなww」と男子に言われて本当に驚いた記憶がある。
他人の持ち物(しかも靴などという少しこだわっていそうなもの)を平然とけなす神経と、トリーバーチすら知らないということに対する、二重の驚きである。
地元でずっと一番で、県で一番の高校を出て、この医学部に入ってきていた。
小さい頃からずっと「頭いいね!」「すごいね!」と言われ続けて、ピノキオみたいに鼻が伸びて育ってきている子ばかりなのだ。
何か言えば尊敬され、常にリーダー格として君臨してきた人たちばかりなのだ。
でも私は知っている。
たかだか地方の医学部に、賢い人間なんていないのだ。本当に賢い人は、理三だの、ハーバードだの、そういうところにいるのであり、
医者になるとか、ならないとか、そんな次元のところにはいない。
私たちはちょっとだけ努力するのが上手だったか、ちょっとだけ記憶力が良かっただけなのだ。
夜になると一人暮らしの部屋で本当に世界から取り残されたような気持ちになる。
私が今まで「当たり前」だと思ってきたことは、当たり前ではなかったのだと思う。
うちの親が「危ないから、事故った時に死なないように、強度のある車を」と言ってくれたから乗っている車でも、「目立つこと」の方が悪なのだ。
「昨日、コンビニにいたね」
いちゃダメなんだろうか。どこで何してもいいでしょう。万引きしてるわけじゃないんだから。
東京は、何をしてもいい。
何をしても、誰も何も言わない。
近くに住んでいても、知り合いに会うこともない。
早く卒業したい。
早く東京に帰りたい。
生まれ育った土地が自分には一番合っているというだけなのに、田舎と東京の話に置き換えている私はきっと性格が良くないのだと思う。
だからこっそり、ここに書く。
ジャック・シャー(John Jacob Sher、1913年3月16日 - 1988年8月23日)は、アメリカの新聞コラムニスト、ソングライター、映画監督、映画脚本家、プロデューサー。
経歴
ミネアポリス生まれのシャーは、『サタデー・イブニング・ポスト』、『エスクァイア』、『レッドブック』、『ラジオ・ミラー』、『リーダーズ・ダイジェスト』、『コリアーズ』などの雑誌に寄稿。
また、ニューヨーク・リポーター誌のコラムニストも務め、1937年から1940年までは、デトロイト・フリー・プレスが発行する全国シンジケーションの日曜増刊誌『スクリーン&ラジオ・ウィークリー』にも寄稿していた。
1959年の『The Wild and the Innocent(邦題:ワイルド・アンド・ザ・イノセント)』を含め、シャーはオーディ・マーフィーのために数多くの映画を執筆し、監督も務めた。
1979年にテレビ用にリメイクされた『The Kid from Left Field』では、このシリーズで主演を務めたゲイリー・コールマン(1968-2010)がNAACPイメージ賞の最優秀子供向け特別エピソード賞を受賞した。
1971-1972年にシャーが手がけたテレビ劇『Goodbye, Raggedy Ann』は、エミー賞のドラマ部門脚本賞にノミネートされた。
哲学的に考えて、人間が認識できるのは、ものか概念のどちらかであるから、あまりにも高度なところにあるものであって、専門技術的に作ったものの場合、認識しようとする側に
そのもの全体を認識する能力がなければ、自然科学上当然に、そのものを認識することができないと解するのが相当である。人工知能の最先端のものは、Sicamoreという、
電気配線を連結させた超高速計算機だけが雑誌に公開されており、それ以外の装置は、どこに存在するかすら公開されていないのであるから、一般人がその存在場所を知る余地は
ない。また、仮に認識できたとしても、その意欲がなく、当人の行動上、見たくないから認識しないで行動しているとすれば、その行動中に、当人が、お前が理解しているものを理解しないで
行動している可能性は十分に存するというべきである。例えば、部屋から出て自転車に乗り、遠くの場所に言っている場合、当人は、その日のうちに食べたもののカロリーを消費したいがために、
自転車にまたがり、遠くにいったついでに、そこで遊んでいるだけかもしれない。しかし、当人が、その日のうちに食べたもののカロリーを消費するために、今から着替えて、駐輪場に設置した
大好きな自転車を車道に押し出し、それから乗車してこぎ出し、自転車並みの速度で北上しているときに、単に運動に出ているという認識で北上しているだけであろう。そして、その最中に
風景に入ってくるものに関しても、あまりにも高度に作っているので理解できないか、興味がないために、走行中に、無視しているかもしれないし、舟渡2丁目の場合、一定の場所に、志村署の