はてなキーワード: 麻痺とは
しかし本人が懲戒請求を出していない。素人4千人に書かせるより御自身が一人だけでも書いた方が良かったのでは?
実際ほとんど門前払いみたいだし。
そもそもそうなったのはテレビで呼びかけたときにちゃんと制度を説明しなかったから。
呼びかけは制度があまり知られていないとの認識のもとに行ったはず。なのになんで説明しなかったの?
そんな状況にもかかわらずいまだ懲戒請求をだしていない様子。
2.弁護団の活動を妨害したかった
不法行為。実際これで訴えられた。
不法行為だからこそ慎重にすべきなのにテレビでの発言はかなり迂闊。
そもそも橋下弁護士に何の得が?
3.懲戒制度潰し
愚民どもの懲戒請求殺到→制度麻痺→制度見直し→懲戒請求しにくくなる。
誰でもできるという懲戒請求は橋下弁護士のようなメディアへの露出が多い弁護士にとってわりと脅威なのかも。
テレビで少し口を滑らしただけで全国から懲戒請求が届くかもしれないし実際少ないながらも届いていたのかもしれない。
でも体張りすぎだしそもそもこれで懲戒されたら話にならない。
4.売名行為
良くも悪くもタレントは知名度が大事。
5.俺みたいなのに騙されるな、という啓蒙活動(及び壮大な釣り)
やりすぎ。
追記
つらつらと思いついたことを書いてみたけど1以外の目標はそれなりに達成してるんだよね。
1が一番ありそうでなかったということか。
3は微妙だけど弁護士の懲戒請求制度に限らずこの手の制度は広く門戸を開く代わりにふざけた請求をするとただじゃおかんぞ、というバランスの上に成り立っている。
なのに請求者本人を訴えないとなると制度を改めない限り悪しき前例として残ることになるわけだからね。
「教師というものは因果な職業です」とでも言いたげな口調で淡々と語るので、脳天気な自分は全く平気だったんだけどそういうのに耐性の無い生徒も多分少なからずいた筈で内心「大丈夫かよ…」とヒヤヒヤだった事を覚えている。
放課後の職員室にて「先生…」「ん?まだおったんか?もう遅いから早く帰りなさい」がその生徒と交わした最後のやりとりでした。という内容だったのでその通りだと思います。でも実はこの件は只の前フリで、少なくとも自分はそこから始まるもう1人の教え子の自殺のエピソードのインパクトがありすぎて、この先生が無神経とか自責の念を感じているかとか感覚が麻痺してしまっているとかはどうでも良くなってしまうのですね。この社会科の先生が社会科の授業中にこんな話をするという事は、「教育」とは?「社会」とは?という問いをこの話を通じて生徒に投げ掛けているという事、つまり先生にとっては教師生活で経験した事全てが自分の仕事にとって、良い言い方では「血肉」、悪い言い方では「(教え子を教育する為の)ダシ」という事だと理解しましたので。
いろいろ思う事は他にもあったりするのですが、一応「もう1人の教え子の自殺のエピソード」の前半部分の概要を。
「私が初めて勤務したのは四日市のとある高校で、そこで森田君という子と非常に親しくなりまして、その生徒とは日本の将来について授業中だけでなく私のアパートでも徹夜で激論を交わしたりしたものです。その後その生徒は東京の大学に進学し三島由紀夫に出会います。」
高校卒業後学会員になった友人(高校時代の友達)の葬式に行ってきました。おきまりの「故人は生前…」で始まる紹介では、「故人は○○年に入信され…」から話が始まっていました。高校時代の友人であった我々数人は、葬式という場で「存在しなかったもの」として扱われたわけです。よくまあそういう失礼な真似ができるものだな、と。他の宗教の葬式でこんな失礼なことは平気で行われるものでしょうかね。
友人や同僚に数人学会員がいることもあり(特に強く勧誘されたりはせず)別にどういった印象も持っていませんでしたが、一気に学会に対する印象が悪くなりました。学会活動でこういった感覚が麻痺するのだとしたら、これは(その人の社会生活にとって)相当有害な影響を与える部類に属すると思います。
以上、あくまで個人的な印象に過ぎませんが。
俺の心のダムを決壊させることのできる人はいないか
溢れそうになるたびに強化・増設していびつすぎる城が出来上がってしまったよ
崩れたらえらいことになりそうでね、周りに迷惑掛けそうで、ますます心を開けないんだ
いつまで1人で頑張ればいいのか、でもやることやらないと生きていけない
つらいと言うよりもう体が痛い
http://anond.hatelabo.jp/20070630215409
つらいなら、それなりの努力してんのかって周りが言うからさ、自助努力した。
そうしてその場の困難を切り抜けて来たは良いが、今度は、その努力で身に付けたものが癖になって体に染みついた。素朴な感覚も麻痺した。周りってけっこういい加減にものを言うものなんだ。今度は、肩の力を抜けだなんて。
とりあえずは人と関わろうと思っている。
あと、心のダム、爆砕するのはなしね。そっと扱ってね。
昔、所属していたサークルには、練習が遅くなると自分を含む女の子数人を先輩が車で順番に送る習慣があった。私はいつも最後だった。
その人は大先輩で、8年つきあってる彼女さんがいて、自分とは年が12歳も離れていたから、信用しきっていた。好きでも嫌いでもなかったしね。
で、うっかり眠ってしまい、気が着いたら車は知らない山の中に止められていて、まぁ要するに無理矢理やられてしまったんだ。私は当時18歳で処女だった。
それまでずっと「好きでもない人とセックスするのなんか信じられない!初めては本当に好きな人とする!」と言い張っていたし、本当にそう思っていたのに、その時は頭の中が麻痺したような感じになって「早く終わらないかな」とか考えていた。
抵抗したけれど力では全く敵わず、「ここであまり騒いで殺されたくない」「寝てしまった自分が悪い」「今、車から降りてもここがどこか分からないから帰れない」という自分でも信じられないぐらいの冷静さ。
コトが終わってから家まで送ってもらう間、一言も口をきかず無言で車を降りた。部屋でぼーっとしたまま一夜明けて翌朝、その先輩から機嫌をうかがうような電話がかかってきた。ここで罵倒すれば良かったんだけど、麻痺しっぱなしだったんで、まったくいつもどおりのテンションで「おはようございまーす!次の練習ですけどー」ってスルーしてしまった。何で?と思うけどスルーしてしまった。それからスルーしたまんま、誰にも言わず、練習で顔を合わせても何もせず、1週間後にサークルを辞めて実家に帰った。
自分がこれほどまでに貞操観念が薄い人間だったことに驚いた。なんで抵抗しなかったのか、なんで罵倒しなかったのか、なんで弾劾しなかったのか、今でも分からない。何もなかった、と思いたかったのかもしれない。
それから10年、何度か恋人が出来たけれど、少しでも私が嫌な時にセックスを無理強いするようなことがあれば、すぐに別れるということを繰り返した。「穴さえあれば誰でもいいんじゃないか」と、一気に冷めてしまって、恋人を最後まで信用しきれなくなった。
私は心の貧しい、捻くれた人間だ。私にしたい時としたくない時があるのと同じように、恋人にだってしたい時としたくない時がある。それが完璧にかみ合うことなんて絶対ないのに、あっさり切り捨てた。10年前、決着をつけなかった自分の怠惰のツケを、ずっと払わされているような気がする。
もういい年なんだし、そろそろ何とかしなくちゃなあということで、10年で初めて人に言ってみたよ。こんなことに増田を使ってすみません。
人によって何を辛いと感じるかは違うしなー。小さい事でも辛いと感じる事が多かったらそりゃ生き難いよ。例えば非コミュな人とコミュニケーション能力に長けた人を比べるなら、多分人と関らなければならない限り非コミュの方が辛い事多くね? 潔癖症と汚いの平気な人間比べたら潔癖症は生き辛くね? 望んで非コミュになる訳でも、望んで潔癖症になる訳でもないよね?
辛い環境に晒されすぎて感覚が麻痺しちゃってる人もいるし。で、だからこそ「何が辛いのか判らないけれど、全部虚しい、生きていたくない」みたいな。周りが「この状況は辛くないのか?」みたいな事を思っても、その辛さを認識してしまうとマジでやってらんなくなるから指摘を否定したり。よーわからんけど共依存とか言うの? ああいうやつ。
それに、赤の他人が辛くったって私の周りに存在しない大多数の人間の辛さなんて私には関係ねーよ。どん位辛いかも、それに対してどんな努力してきたかもわかんねーし、自分の無知とか経験のなさもあるけれど、なんでそれが辛くなったかさえ想像すらできなくて全然わかんねー事もある。
確かに辛いのは自分だけでもないしお前だけでもねーけれど、でも、それ言ったってあんまり救われない、とは感じる。
同意。
普段見ることのできない死の瞬間を合法的に見ることができるようになり、
それが一種のエンターテインメントとなっていくだろうね。
人々は「人が人を殺すこと」を日常的に目にするようになり、
「死」や「人を殺す」ということに麻痺していく・・・ような気がする。
これは若い人だけの問題じゃないと思うよ。
また公開することで抑止力が上がるかどうかは疑問。
ネットだからこそなんだろうか?
ネット上では何かとカテゴライズし、レッテル貼りし…という動きに余念が無い
リアルじゃ出来ないからこそ、ネットでステレオタイプな物の見方をしたり
(でも偏見に満ちた言葉をはけないというのはそんなにストレスがたまることか?)
やれ男がどうの女がどうの、欧米人がどうの、日本人はどうの、若者がどうの、
○○県の人間はどうの、もっと細かくいくと○○オタはどうの、
○○が好きな人間は、ともう鬱陶しい。
あまりにそれだけで語りすぎてはいないだろうか…
結局は、最終的には個人がそれぞれ存在するのみなのに
大袈裟でなく真面目に言ってるような人が多すぎる。
始めは大袈裟に、わかっていて言ってたんだろうけど
それをあまりに多くの人がするたびに麻痺して
段々大真面目に「○○人は××」「○○県は××」とかとんでも無い事を言い出してきた
それが「当たり前」になってきてるのが、ちょっと怖い。
男女の件となると、「一部の男女」をさも「全体」のようにとりあげて
語る人の何と多い事か。漫画のキャラクターのように、異性には数種類
あるいは一種類のタイプがある、みたいに捉えてる人最近いないか?
なんかもううぜえ
なんで最初から、自分から、積極的にフィルター通そうとすんだよ。
もっと個人個人で見ようや
自分がそういう目で見られたら、嫌だろうに…
「カッターナイフで指先を切って血が出た」「金槌で親指を打ちつけた」「タンスの角に小指をぶつけた」
ならば経験があるので感覚を想像できます。が、経験しようが無い「心を切り刻まれた」という、
「心」なんておよそ実体の無いものに一々傷ついた傷つけられたと言う人間の感覚がよくわからないのです。
言葉が単なる文字の羅列では無く実在の凶器にも勝ると考えている人の意見を多々聞いてきましたが、それは
特定の人種、信条、性別、社会的身分の人間をピンポイントで殺せる道具が有り得ると考えているわけで、
http://anond.hatelabo.jp/20070412122206
今私がしていることは、誰にもナイショで、アドバイスをもらうことが出来なかったから、
ここでコメントを頂けてとてもありがたい。
私の任務は、私が元気だから出来ることだと分かっている。
その代わりに連れてきた2人目のお医者と一番長くやりとりした。
彼女の症状は見るからに悪化傾向で。
普通に仕事をするのが難しかった。それをまわりにわからないように、私は出来るだけいろいろな面でフォローしようとした。
その時が一番辛かった。
でも「仕事をしながらじゃないと治らない」らしく。「会社を辞めたら復活できない」らしく。
「私がギブアップしたら、彼女は会社を辞めるしかナイんだ」と。だから、ギリギリまで頑張った。
でもギリギリがどこなのか、麻痺ってきて。ちょっと見誤ってしまった。
会社で問題がおきて、さすがに耐え切れず、それをお医者に訴えた。
お医者は私に謝罪し、責任を取って?病院の指示で?担当を外れた。もしかしたら外された。
今、3人目のお医者。
3人目は、「今まであなたへの要求が高すぎた。申し訳ない」、といっていたが・・・・。
だんだん2人目のときとかわりなくなってきた・・・。
2人目は何のために交代したのか。。。。
それでしんどくて。
昨日、3人目に訴えてみた。。。。
ごはんはちゃんと食べます!
今のところは、たまにものすごく辛くて、不安で、よく分からなくなるんだけど、
でも、とりあえず元気ではあります。
人生は石材なり。これに神の姿を彫刻するも悪魔の姿を彫刻するも、各人の自由なり。スペンサー
わかるだろうか……人生には解決なんてないのだ。ただ、進んでいくエネルギーがあるばかりだ。そういうエネルギーをつくりださねばならない。解決はそのあとでくる。サン・テグジュペリ
人生は欲望だ、意味などどうでもいい。すべての生き物の目的は欲望なのだ。それぞれ欲望があるから、バラはバラらしく花を咲かせたがるし、岩はいつまでも岩らしくありたいと思ってがんばっているんだ。そうだ、人生は素晴らしい。恐れの気持ちさえもたなければだ――なによりも大切なのは勇気だ。想像力だ。チャップリン
人生をしいて理解しようと欲してはならない。人生はそのままひとつの祭日である。ただ楽しくその日その日を生きることにしよう。無心に道を歩く子供が、吹く風ごとに春の花びらを肩一杯に浴びているように。リルケ
人生は芝居のごとし、上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。とかく、あまり人生を重く見ず、棄身になって何事も一心になすべし。福沢諭吉
あこがれ、愛、希望、欲望、これが真の人生なのだ。コッツェブー
かれの考えによると、人間はある目的をもって生まれたものではなかった。これと反対に、生まれた人間に、はじめてある目的ができてくるのであった。最初から客観的にある目的をこしらえて、それを人間に付着するのは、その人間の自由な活動を、すでに生まれたときに奪ったと同じことになる。だから人間の目的は、生まれた本人が、本人自身につくったものでなければならない。夏目漱石
人生にはめざすべきふたつの事がある。ひとつは諸君が欲するものを手に入れること。もうひとつは手に入れたのちこれを楽しむこと。ところで第二のほうに成功するのは、きわめて少数の賢い人間だけにすぎない。ローガン・ピアソール・スミス
自分のめざすところをはっきり自覚し、たゆまぬ前進をするもの。自分の目的に対する手段を知ってそれをとらえ利用することを知っている人間は尊敬に値する。その目的が大きいとか、小さいとか、賞賛に値するとか非難に値するとかいうようなことは後になって非難されることだ。元来不幸とか不遇とかいっているものの大部分は、その原因をただすと、人間がいかに怠けもので、自分の目的を的確に知ろうとせず、たとえそれを知っても、それに向かってまじめに突進しようという努力の足りないところにある。ゲーテ
目的をとげるのに、長い忍耐をするよりも、めざましい努力をすることのほうが、まだ容易だ。ラ・ブリュイエール
明日しなければならないことがあったなら、今日のうちになせ。フランクリン
時間の値を知らない者は、生まれながらに栄光には向いていない。ヴォルヴナルグ
現在は過去以外の何ものも含んでいない。そして、結果のなかに見出されるものは、既に原因の中にあったものである。ベルグソン
時は金である……そしてそれによって利益を計算する人たちにとっては多額の金である。ディッケンズ
普通人は時をつぶすことに心を用い、才能ある人間が心を用いるのは、時を利用することである。ショウペンハウエル
二十歳にして重きをなすのに意志、三十歳にして機知、四十歳にして判断。フランクリン
年をとることを恐れるな。心配しなければならないのは、年をとるまでのいろいろの障害を乗り越えることだ。ショウ
二十歳のときハンサムでなく、三十のとき強くなく、四十のとき財がなく、五十のとき賢くなけりゃ、けっきょく一生なんでもない。イギリスのことわざ
決断――なすべきことをなそうと決心せよ。いったん決心したことはかならず実行にうつせ。フランクリン
英雄に普通の人より勇気があるのではなく、ただ五分間ほど勇気が長続きするだけである。エマーソン
野心はひとつの悪徳なるも、そは美徳の父ともなりうる。クウィンティリアス
志の固き人は幸いなるかな。なんじは苦しむ。しかれども長く苦しむことなし。また誤って苦しむことなし。テニスン
充実した一日がしあわせな眠りをもたらすように、充実した一生は幸福な死をもたらす。レオナルド・ダ・ヴィンチ
改革すべきはたんに世界だけでなく、人間である。その新しい人間は、どこから現れるのか?それは外部からではけっしてない。友よ。それを君自身のうちに見いだすことを知れ。しかも鉱石から純粋な金属をとるように、この待望の新しい人間に君みずからなろうとせよ。君からそれを得よ。各人は、驚くべき可能性を内蔵している。君の力と若さを信ぜよ。たえず言い続けることを忘れるな。「ぼくしだいでどうにもなるものだ」と。ジード
汝の道を歩め、人々をしてその言うにまかせよ。ダンテ
学問は脳、仕事は腕、身を動かすは足である。しかしいやしくも大成を期せんには、先ずこれらすべてを統ぶる意志の大なる力がいる、これは勇である。大隈重信
大道行くべし、又何ぞ妨げん。木戸孝允
大切なことは、大志を抱き、それをなしとげる技能と忍耐をもつということである。その他はいずれも重要でない。ゲーテ
才能とは、自分自身を、自分の力を信ずることである。ゴーリキー
真の欲求なくして真の満足はない。ヴォルテール
求めよ、そうすれば、与えられるだろう。探せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるだろう。すべて求める者は得、探す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。新約聖書
今日なし得ることに全力をつくせ。しからば明日は一段の進歩あらん。ニュートン
なにもかも失われたときにも、未来だけはまだ残っている。ボビー
成功の秘訣を問うな。なすべきひとつひとつに全力をつくせ。ワナメーカー
運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構である。夏目漱石
理想は星のようなものである。諸君はそれに手を触れることはできないが、荒涼たる大洋を航海している人のように理想を水先案内人として選び、これに従うことによって諸君は自らの運命を決定するであろう。ヤール・シュルツ
運は吾人より富を奪い得ても勇気を奪い得ず。セネカ
わたしは運命ののどくびをしめあげてやるのだ。けっして運命に圧倒されないぞ。この人生を千倍も生きたなら、どんなにすてきだろう。ベートーヴェン
運命というものは、他のことにおいてもそうであるが、特に戦争においては最大の役割を演ずるものであり、それは小さな原因から決定的な変化を引き起こすのである。カエサル
花が花の本性をを現じたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じたる時は美の頂上に達するものである。西田幾多朗
人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって行動すべきものである。サルトル
人間とは、自分の運命を支配する自由な者のことである。マルクス
若いころ、私は人世の「幸福」として認められていることを個条書きにしてみたことがある。健康、愛、才能、権力、富および名声等の現世的な欲望を並べたて、それを賢明な先輩に得々として見せた。
その先輩は言った「なかなか結構だな、それに、順序もまずまず無難だ。しかし、それがないと君の表が耐えがたい重荷となる唯一のものが欠けているようだ」。
彼は私の表を消して次の文字を書いた――心の平和。ジョシュア・リーブマン
なぜ私は結局、好んで自然とまじわるのか。自然は常に正しく、誤りはもっぱら私の側にあるからである。自然に順応することができれば、事は全ておのずからにして成るのである。ゲーテ
花、無心にして蝶を招き
蝶、無心にして花を尋ねる
花、開くとき蝶来り
蝶、くるとき花開く
知らずして帝則に従う 良寛
じぶんのためには何も望むな!求めるな、心を動かすな、うらやむな。人間の未来も、お前の運命も、おまえにとってはつねに未知のものでなければならない。だがあらゆる事態に対する覚悟だけはしっかりときめて、勇気をもって生きることだ。そしてあとは神のみこころにまかせるのだ。トルストイ
もっとも尊重せねばならぬのは生くることにあらず、よく生くることなり。ソクラテス
人生を真剣に生きようと欲する者は、あたかも末長く生きていかなければならぬものとして行動すべきであり、同時にまもなく死ぬべきものとして身を処さなければならない。リトレ
僕には死んでゆくことは少しもこわくない。いま自然に死んでゆけるのだったら、どんなにうれしいか、とまで思っている。だが、僕もこうして人間に生まれて来たんだから、やはり、何か生き甲斐が感じられるまで生きている義務はあると思う。リンカーン
朝に死し、夕に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。鴨長明
人生は、ほんの一瞬のことにすぎない。死もまた、ほんの一瞬である。シラー
正しく考えるとき我々は神の中にある。正しく生きるとき神は我々の中にある。アウグスチヌス
信仰とは我々の目に見えないものを信じることである。そしてこのような信仰のもたらす報酬は我々が信じるものを眼で見るということである。アウグスチヌス
いかにして人間は自分自身を知ることができるのか。観察によってではなく、行為によってである。なんじの義務をはたさんとつとめてみよ。そうすれば自分の性能がわかるであろう。ゲーテ
自分に対する尊敬、自分についての知識、自分に対する抑制、この三つのもののみが、生活に絶対的な力をもたらす。テニスン
己の感情は己の感情である。己の思想も己の思想である。天下に一人のそれを理解してくれる人がなくたって、己はそれに安んじなくてはならない。それに安んじて恬然としていなくてはならない。森鴎外
自己におもねるまい。自己を軽蔑すまい。自己をそれがあるべき相当の位置におこう。もしその位置が与えられなかったとしたら、それを発見し、創立することに骨を折ろう。有島武郎
その年齢の知恵をもたない者は、その年齢のすべての困苦をもつ。ヴォルテール
自分がなんであるかを知りたいと思うならば、自分がなにを好むかをみればよい。ニーチェ
怠惰は弱い頭の逃避場、愚者の休日にすぎない。チェスターフィールド
この山を登らんとする者、麓にては大いなる苦しみにあわん。されど登るにつれそは減ずべし。そのゆえに、辛苦も愉しみになりつるとき、登ることいとやさしくみえて、速き流れを小舟にて下がるがごとし。ダンテ
魚は食いたい、足は濡らしたくないの猫そっくり、「やってのけるぞ」の口の下から「やっぱりだめだ」の腰くだけ、そうして一生をだらだらとお過ごしなさるおつもり?シェークスピア
だから、怠惰は母親なのだ。怠惰には、盗みという息子と、飢というむすめとがある。ユーゴー
君のもっとも手近な義務からおこなえ、いずれの義務でも、待たされればさらに七つの義務を引きつれて戻ってくる。キングスレー
人間にとって、苦悩に負けることは恥辱ではない。むしろ快楽に負けることこそ恥辱である。パスカル
労働は美徳の泉である。ヘルダー
疑う余地のない純粋の喜悦のひとつは、勤労のあとの休息である。カント
働くことは、私の感じでは、食べることや眠ることよりも、人間に必要である。フンボルト
人生は活動の中にあり、貧しき休息は死を意味する。ヴォルテール
労働は人生を甘美にさせる。労働を憎むものだけが悩みをもつ。ウイルヘルム・ブルマン
明日の朝にしようなどと言ってはならぬ。朝が仕事を仕上げて持ってきてくれるわけがない。クリソストムス
労働のなかにだけ、平和がやどり、労苦のなかには、安息がやどる。フォトネル
天下に難きことなしただ心ある人を怕る。中国の故事
人必ず自ら侮りて然る後に人之を侮る。中国の故事
普通人は時をつぶすことに心を用い、才能ある人間が心を用いるのは、時を利用することである。ショウペンハウエル
時と潮汐は何人をも待たない。イギリスのことわざ
寸暇を利用する事がいかなる種類の戦いにも勝利を博す秘訣である。ガーフィールド
自ら正しいと信ずる者は王の万軍よりも強く、自ら正しきを疑う者は些かの力をも有せず。カーライル
希望は日光に似ている、つまり、どちらも明るさだ。一つは荒んだ心の聖い夢となり、一つは泥水に金の光を浮かべてくれる。ヴェルレーヌ
籠鳥雲を恋う。日本の故事
青年よ、青年よ、つねに正義とともにあれ。もし正義の観念が汝のうちで薄れるようなことがあれば、汝はあらゆる危険におちいるだろう。ゾラ
盛年重ねて来たらず、一日再び、晨になり難し、時に及んでまさに勉励すべし、歳月人を待たず。陶淵明
人生のいろいろな楽しみは、それを主要な目的とするのではなく、通りすがりにそれを味わうときにはじめて、人生を楽しいものにしてくれる。――いったんそれを人生の目的としてしまえば、とたんにそれだけでは物足らない気がしてくる。楽しみなどというものは、細かく吟味すれば必ずボロが出てくるものだ。幸福になる唯一の道は、幸福さでなく、なにかそれ以上のものを人生の目的にえらぶことである。J・S・ミル
生きるための職業は、魂の生活と一致するものを選ぶことを第一とする。阿部次郎
将来を思い煩うな。現在為すべきことを為せ。その他は神の考えることだ。アミエル
明日は、何を為すべきか。これは今日のうちに考えておかなければならぬ唯一のものである。石川啄木
忍耐をもつことのできる人は、ほしいものを手に入れることができる。フランクリン
人間は自己の運命を創造するのであって、これを迎えるものではない。ヴィルマン
信念は人を強くする。疑いは活力を麻痺させる。信念は力である。ロバートソン
明日は何とかなると思う馬鹿者。今日でさえ遅すぎるのだ。賢者はもう昨日済ましている。クーリー
生涯における予の一切の成功は、仕事を時機よりも常に十五分早くしたからである。ネルソン
多くの仕事をしようとする人は、今すぐに一つの仕事をしなければならない。ロスチャイルド
青年よ、意志を強くし、身体を強壮にするために、毎日一度は苦しいと思うことを遂行せよ。ジェームス
怠けていると退屈してくる。それは結局、他人が忙しく仕事をしているために、仲間がなくなるからである。B・ジョンソン
自分が立っている所を深く掘れ、そこからきっと泉が湧き出る。高山樗牛
苦中の苦を喫せざれば、上中の上人とならず。滝沢馬琴
人間にとって一番大切なことは、各自仕事に進歩を求めて励むことだ。ミレー
女性を敬え。彼女らは地上の生活のために、天国のバラを織りなす。シラー
働いて待つことを学べ。ロングフェロー
なにごとにも耐えることのできる人は、なにごとも決行することができる。ヴォルブナルグ
発憤しなければ、十分な努力はできない。それがなければまた、十分な成功も得られない。失敗し発憤し努力し、それが成功への第一歩となるのだ。一度の失敗で意気銷沈しては、一生何事も成さずに終わってしまうものなのだ。古河市兵衛
運命を外から受け入れるような人は、運命に殺される。野生のけだものが矢に殺されるように。ヘッセ
第一に必要なるものは大胆、第二に必要なるものも大胆、第三に必要なるものも大胆なり。キケロ
私が一つの欲望をもつかぎり、私は生きる一つの理性をもつ。満足は死である。バーナード・ショウ
問題になるのは量にあらずして質。セネカ
決意は、人間の力、勇気、知恵ではない。それは宗教的な出発である。キェルケゴール
自ら恃みて、人を恃むこと無かれ。韓非子
行いの美しい者は姿も麗わしい。イギリスのことわざ
松居一代が講演会にTVにでまくって稼ぎまくっているらしい(別に稼ぐこと自体は悪くはないのだが)。ターゲットはアトピー性皮膚炎を抱える患者と女性か。
先日、「月バラ! テレビ初公開絶対聞きたい講演会」というTV番組で松居一代の講演会を目にした。内容は長男のアトピー闘病記、離婚、自身の顔面麻痺との闘いなどなど。
確かに、講演はうまいなーと思った。話の抑揚とか身振りとか。実際、その講演会に居合わせたら、涙を流しているかもしれないなとも思った。
別段、講演会やTVにでまくることは悪くはない。ただ、そういった影響力のある場(特にTV)に出るのならば、他に伝えるべきことがあるのではないのだろうか?と思ってしまう自分がいる。
知り合いや友達が善意をもって教えてくれた情報が必ずしも助けになるとは限らないということ(寧ろ返って悪化する可能性がある)、探ってみると、実は又聞きの又聞きだったり、どっかのワイドショーで仕入れた全く信憑性のない話を元にしている場合が多かったりする(これって善意?って話でもあるのだが)。よって、吟味する必要性がある。
お金の匂いを嗅ぎつけ、詐欺まがいのビジネスを行う輩と企業が非常に多いということ(正直、「アトピーに効く」とこっそり書いているだけでどうかな?と思う)。
ま、何れにせよ、これ!という確実なものはないんだけどねー(その中から選択しなければならないのだけれど)。松居一代のお子さんが治ったという漢方治療だって、一歩間違えれば詐欺じゃないかと思えてしまうほど、怪しいものに感じられるしね。
でも、重度の患者とその保護者は著しく判断力が低下しているから藁にもすがる思いであれやこれやと手を出してしまうんだよね。結果としてもっと酷くなってしまい、手に負えなくなる。。精神的にも疲弊する。。
松居一代ほど有名なら痛いほどそういった目にあってきたはずだろうに、今講演会やTVではそういったことにあまり触れてないように見える。まあ、TVでそういった話を仮にしたとしても、潰されるとは思うけどさ。
*それにしても、父親や松居一代がアトピーであるというわけでもないのに、妊娠中に食事制限をしたという話が事実なら相当におかしい話だ。それとも、最近の育児雑誌ではそういった情報が掲載されているんですかねー?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q119083776
因みに、今まで生きてきた中で最も怪しさ満点だった治療法は陰陽師。陰陽師に祈ってもらったら、治ったという体験談。。まあ、それだけ色々な治療法に明け暮れたという裏返しでもあるんだけど。
昼も夜もない白い空間で私は過ごす。一日を?一年を?一生を?時間はとうにわからない。もう何十年も経っている気もするし、何年かしか経っていない気もする。夜に寝て、朝に起きるなんて習慣も、もうなく、気づいたら起き、気づいたら寝ている。そして、時々こうして考える時があるだけだ。
食事は腕から点滴で、排泄は尿道にささったカテーテルで済ませているらしい。なぜ、らしい、なのかと言うと私にはそれが刺さっているかどうかわからないからだ。体の感覚はすでにない。だから、正確に言えば体が本当にあるのかさえ、わからない。あるのはただただ白い空間と、こうして考えてる私だけ。だから私が考えていない時、ここには何もないのかもしれない。もし、あるとするならば、ただただ白い空間に、出来損ないの人形があるだけだろう。時より考える、出来損ないの人形が。
そういえば、いつから人形のようになったのだろうか。私は回顧する。
ある日突然、私は全身麻痺になった。理由はもう思い出せない。そしてここに連れてこられた。この白い空間に。初めはまだ昼も夜もあったし、私は人間だった。ただ全身麻痺した人間だった。しかし、しばらくすると、それもぐらついてきた。それ以前は食事や排泄など、煩わしいだけだと思っていた。面倒なだけだと。しかし、いざ、食事や排泄をする必要がなくなってみるとどうだ。今まで持っていた多くのものがぐらつきだしたのだ。点滴は一定速度で落ちてくる。故に満腹もなければ空腹もない。ずっと同じ状態だ。しかも自らが咀嚼して嚥下するのではない。ただただ機械的に、ぽたり、ぽたりと落ちてくる点滴によってだ。自分ではどうにもならないそれによって、私は常に保たれる。満腹も、空腹もない状態を。そして私の命を。
排泄も初めは抵抗があった。しかし、すぐにそれは意味のないことだと知らされる。なぜなら何もないのだ。自ら排泄していた頃ならば、自らがコントロールできたそれが。全く、何も。だから、私はいつ排泄されたのかもわからない。感覚がないのだ。気がついたら排泄されていて、カテーテルを通して、尿バッグへと溜まっている。点滴と同じように。ぼたり、ぼたりと。
この頃から私は揺らぎ始めた。自分が。身体が。私は点滴によって生かされる。私の意思とは何ら関係のない点滴によって。そして点滴は私の体を通り、排泄される。これも私の意思とは何ら関係がなく、機械的に。自動的に。これを生きていると言えるのだろうか。私の身体だと言えるのだろうか。私はそのように考えるようになった。
そして何もない日々が止めであった。何ら変わることもなく、白い空間で点滴とカテーテルとの管となって、私の意思とは関係なく、ただただ生かされる日々。何日も、何年も、何十年も。私は生かされ続け、殺され続けた。
この考えも何度目、何十度目、何百度目、何千度目だろう。数え切れないし、数えられない。時間の感覚も、変化もないんだから。他のことはもう思い出せない。このことだけしか、人形の作り方だけしか私には思い出せない。
そして―それももう―終わりが近い――だろう。もう擦り切れ――だ。後――最後の一行程で―――完成――――だ―――――から――――――