はてなキーワード: 自己完結とは
いや違うな、誰も見てくれない、っていうところが嫌なんだきっと。
そりゃmixiなら特段内容に気を使わなくても自分に対するある程度の興味をもったユーザーが50人ぐらいはいるんだもんな…。
自己完結。
http://anond.hatelabo.jp/20071215015206
えー。これなんですが。まず、ごめんなさい。これ、以下二つの点が知りたくて投入した、ちょっとした実験でした。
1)文体で性別を暗示できるのか。
あのエントリーでは、「わたし」あるいは「私」という主語を不規則に使ったわけですが、相手のことを書くときも、「彼」ではなく「あの人」という曖昧な表現に止め、最後まで自分の性別を明示しませんでした。その結果、4人中2人の方が筆者を女性だと思ったという点。
この主語はユニセックスなものだと思っていたのですが、ああいうコンテクストで使うと女性を印象づける、という点。恐らく、男性はあんなグダグダした文章を書かないという先入観があったのではないかと予想されますが、筆者が男性だという可能性を指摘しなかった点は興味深いです。
2)文章のどこまでを読むのか。
あのエントリーは、よく読むと完全に自己完結した独り言になっています。つまり、本人の結論は既に出ています。この部分。
> …今回は気持ちをぐっと抑えて、告らない。死ぬまで黙っていよう。…
言及してくれた4人のうち、2人がこの結論を読み逃していると思われます。つまり、あの長さのエントリーになると、最後まで読み切るひとはほとんどいない、ということを暗示しています。わかりやすく書きたければ長文エントリーは有効ではない、ということですね。
また、結論を書いた後にその内容をぼかすような内容を加えると、結論の印象を完全に打ち消すことが出来るという点。これは非常に興味深かったです。
結論を最後に持ってくるという、日本語文の伝統的な書き方も有効ではないということを暗示しているように思います。やはり、結論は最初に書くべきだと思いました。
…というわけで。あらゆる意味で、この方の反応が最も的確でした。
http://anond.hatelabo.jp/20071215024908
> ってかまじめに答えていいの?コレ…w
それに気づいたアナタは素敵ですw
やぁ、元増田だ。
どうやら、本当にわかってない人達がいるようだね。
http://www.suzaku-s.net/2007/12/kosei-kyouiku.html
http://anond.hatelabo.jp/20071214154638
円環的時間に子どもを閉じ込める、というのは、どういうことか。個性を育てる教育とか要らないとか、ゆとり乙とか、そういう話じゃない。
http://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/blog/node/1870
ある方からのタレコミ。小4のお子さんが学校で長方形の面積を横×縦で計算したら減点された。学校に問い合わせたら,担任にも教務主任にも縦×横が正解と言われたとのこと。横×縦でも同じになることを自分で見つけたならば褒めるべきところを減点するようでは,創造性を伸ばすなというようなもの。
こういうレベルの話だ。俺は30年くらい前に小学校の作文授業で、「習っていない漢字」を書いたことによって減点された(日本語としては間違っていない。ただ、「まだ教えていない」ことだけを理由に×をつけられて減点された。理由も明記されていた)。「ゆとり」時代にカリキュラムにあったかどうかは知らないが、「つるかめ算」を意図しているであろう設定の問題で、空気を読まずに二元連立方程式でさっくり解くと、×になる。あくまでも、つるかめ算の操作を暗記して再現するのが算数のテストの答え方だという。ちなみに、ちょっと気の利いた学習塾などに行くと、さっくり解いたあとで求められる操作に数字をあてはめておくといいことぐらいは教えてくれる。このほうがまじめに空気を読むよりは速い。でも、答案用紙に連立方程式の痕跡は残しちゃいけない。
学習指導要領をどう弄ろうが、これが日本の公教育のスタンダードだ。
毎年、「あまり代わり映えのしないこと」(これ自体は、初等・中等教育では、ある程度はそういうものだろう)を教えつづける、という円環的時間の中にいる教師が、生徒を育てるのではなく、自分の授業が自己完結し続けるという循環の材料として子どもを使うという構図だ。その中において、教師の授業の「上を行く」子どもの行動は、夾雑物として扱われる。
一見、「創造性を育む」ようなお題目の内容であっても、「どのような流れでどのような形の解答にたどりつくか」ということが、教師の想定範囲に留まることが求められてしまう。そして、これは個々の授業内容に留まらず、どういうカリキュラムを学校として提供するか、という学習指導要領などの作成にも反映されているし、さらに敷衍すると、社会形成の全てにわたり、よくみる若者カルチャー叩きの構図と重なっていく。文化として、別に良くも悪くもない、というか、どうでもいいことが、単に老人の分からないということだけで罪悪視される。
モンスターペアレンツ叩き事例をよくみると、茶髪やピアスといった、それ自体は正直どうでもいいことについての「生活指導」に対する親の異議申立てが混じっていたりするよね。もちろん、それは自身が茶髪であったりピアスをつけていたりする親への叩きにもなっていたりする。
やぁみんな、元気?
今日僕は、15歳のころからずっと探し求めてたモノについに出会ったんだ。
あんまり嬉しかったから、ここでそれについて軽く報告させてもらうよ。
さて、僕がずっと探し求めてたモノ。それって一体なんだと思う?
勘のいい人なら題名を見た瞬間にピンと来ただろうね。
今日の午後の話だよ。
そうだね、あれは確かランチを食べた後だったから、1時かそのくらいだったと思う。
いつも通りその約30分後に便意を感じ、
けど、そこで僕が対面したウンコは決して「いつも通り」なんて言葉じゃ片付けられないシロモノだったんだ。
完璧だったのさ。
何がって?
ウンコだよ。
ウンコがだよ。
あまりに完璧すぎたから僕、思わず半ケツでつぶやいちゃったよ。
「パーフェクト・・」ってね。
それは実際、ネスカフェのメグ・ライアンもびっくりするくらいのパーフェクトっぷりだった。
その瞬間確かに僕は感じたんだ。
いつも見慣れた薄汚い灰色の密閉空間が、朝日が燦燦とさしこみカーテンが朝の爽やかな風に揺れる
あのリビングへと一瞬で様変わりするのを。
さて、あまりに興奮してたからかな、ここまで一息で書いちゃったんだけど、今読み返してみたら、
上の文章がいくらか読者のみんなに対して不親切だったかなという感が否めない。
というのも、みんなと「完璧なウンコ」という概念についてコンセンサスを築くことが出来ているのかどうか、
確認することを怠っていたからだ。
そこで以下では、みんなに僕がどれだけ興奮したかをもっとよくわかってもらうためにも、
僕がここで「完璧なウンコ」と呼ぶものが一体どのようなウンコを指すのかを簡単に説明しておきたいと思う。
この概念を一番最初に提唱したのは、イタリアの哲学者、フンバルト・エーコだ。
みんなも名前くらいは聞いたことがあるだろう。
彼は記号論の分野で世界的な名声を得ているんだけど、同時に小説家としての顔も持っていて、
多くの人はむしろ彼を哲学者ではなく小説家として認識しているかもしれない。
処女作「ウンコの名前」は世界24カ国で大ベストセラーになって(当然日本でもだ)、
ハリウッドで映画化もされたし、なんと主演のショウン・コネリーはアカデミー賞までとってる。
そしてその彼が初めて「完璧なウンコ」について言及したのが、第2作「フーコーのウンコ」だ。
彼はその中で、こう語っている。
「世の中には二種類のウンコしかない。すなわち、完璧なウンコとそれ以外のウンコだ。ここで私がいう完璧とは必ずしも形而上学的な意味ではなく、ただ単純に、ウンコがいかにウンコらしくあるかという意味での完全性のことを指す。(中略)そして、ウンコがこのように自同律的であるためにはいくつかの条件を満たしている必要がある。臭気、色艶、フォーマット、コンテクスト、訴求力、含有物。これらがウンコが完璧であるための必要条件となることは言うまでもないだろう。だが実はこれらはあくまでも前提にすぎない。真に重要な条件はその先にある。そしてそれが限りなく実現不可能に近いために世の中のほとんどすべてのウンコは完璧となることができないのだ。その条件とは、『肛門にまったくその残骸を残さない』ということだ。そう、完璧なウンコとはそれだけで自己完結しているウンコのことを指すのである。」
ごめんよ、少し引用が長くなってしまったね。
全文引用するのが無理だったから、ちょっとわかりづらい文章になってしまってるかもしれない。
理解できなかった人のために、一応僕が簡単に補足説明しておこう。
エーコがここで言ってる「完璧なウンコ」っていうのは、まず第一に、ニオイも色艶も形もウンコらしくなきゃいけない。
普通の人は完璧なウンコって言ったら無味無臭で誰にも迷惑をかけない、そんなウンコのことを指すのかななんて
想像するだろうけど、エーコの主張はそれとはまったく違うものなんだ。
おもしろいよね。
ウンコが完璧であるためには、一目でそれとわかるような形であり、色艶であり、鼻から一息吸い込んだだけで
それがウンコであると理解できるようなニオイも持ってなきゃいけない。
エーコはこう言ってるんだ。
「コンテクスト」っていうのは、果たしてそれがどのような場面でなされたウンコかっていうような意味だと思う。
エーコ曰く、完璧なウンコはある程度の緊張感が隣り合わせとなっている場面でなされなければならないらしい。
これについては、今回僕が中略した箇所で詳しく述べられてるんだけど、これを説明してたらあと1000文字は
くだらないだろうから、ここでは遠慮させてもらうよ。
「訴求力」っていうのは、ウンコがどれだけその行為者の心を動かすことが出来るかっていう意味だ。
実は彼、「完璧なウンコというものはその行為者がそれを食べてしまいたいと思わせるほどに魅力的でなくてはならない」
とまで言ってるんだけど、ちょっとこれは変態っぽいからさすがに省略したよ。
けど彼が言いたいこと、なんとなくわかるだろ?
もう見るからにウンコで、ニオイもウンコでしかないんだけど、なぜか、「おいしそうだな、ちょっとかじってみようかな」
「含有物」については説明する必要はないだろう。
ニンジンやコーンのことだ。
そして彼が言う、最終にして最大、最重要の条件が、肛門に一切残骸を残さないということ。
これはつまり、ウンコをしたあとにトイレットペーパーでお尻を拭いても、そこに何もつかないってことを意味している。
確かにウンコをしたはずなのに、菊門にはそれが存在していたような形跡がまったくない。
(余談だけど、昔の人はこれを「紙隠し」って呼んだらしい。そう、これが神隠しの語源さ。)
今まで一度でもウンコをしたことがある人なら、これがどんなに難しいことか、容易に想像がつくだろうと思う。
だからこそ、エーコはこんな本を書いてしまうほどに、完璧なウンコというものに魅了されたんだろうね。
さて、ずいぶん長くなってしまったね。
何はともあれ、僕がどれだけ興奮しているかはわかってもらえたんじゃないだろうか。
だって15歳のころからだよ?
15歳のころから、僕はずっと完璧なウンコに出会いたくて仕方なかったんだ。
ちなみに、僕が完璧なウンコの存在を知ったのは、東野幸治がテレビ番組でそれについて喋っていたからだ。
彼には感謝しなくてはいけないね。
僕にこんな素晴らしい体験をさせてくれたんだから。
世の中の人は普段どれだけ死を意識してる?
それが知りたいから、これを読んだ人はできるだけ答えてほしい。ここに書いたほうが、別のアンケートにするよりかは自由に、自由すぎるほど勝手に思うことも言えるだろうから。
俺は死というものがいまだに理解できていない。
祖父は俺が生まれる前になくなっていて、祖母は健在、両親も健在で、物心ついてからまだ俺の身のまわりで死というものが見えたことがない(近所の人とか友人の親にはそういった人もいる。でも実感の範囲外)からかもしれない。死そのものを知らないけど、存在は知ってる。無になるんでしょ?こんな怖いことはないよね。
精神状態がある程度より下にあるとき、死を思うことにとりつかれることがある。そんなときは過去の偉人の話を聞いても、どんな偉業をなしても結局死ぬんだと一人布団の中で震える。
それでも、俺は自分の意識の終焉と終焉以後の自分の意識について想像する。
死ぬことで自分の意識が無に帰すってどういう状況?さっぱりわからん。想像するたびにびびる。だって生まれてこのかた自分の意識が無に帰した状態になったことないじゃん。誰に聞いても知ってる人はいないし、宗教の話もピンとこない。
「幽霊がいればいいのにね、死後も意識があるって証明になるから」とある人はいったけど、俺もほんとうにそう思う。幽霊を見ることができれば、俺はこの恐怖から解放される。
いろんな事情があるのは分かる。自分が死ねば他の多くの人がいい方向にいくっていうのは、ある意味で死ぬ動機にはなりうる気がする。でも、中には思い悩んだ結果死ぬことにしたっていう人もいる。悩んだ自己完結の結果が死、というのに対して俺はまったく理解ができない。死より恐ろしいものを知らないせいだ。
いじめを苦に自殺するのも、言いにくいことだけどよくわからない。学生にとって学校はその人の世界のほとんどを占めるものだろう。そこでいじめがあった場合、世界に絶望してしまうかも知れない。でも、結局のところ環境は自分が作るものだ(少なくとも日本においてはそういえると思う)。
宗教的な観点とか実体験に基づく考え方とかいろんな見方があると思うけど、知りたいのは他の人がどれくらい死を意識してるのか、死を毎日思う俺は異常じゃないのかどうか。
まあそれに尽きる.
増田読んでると、不真面目な男おるやん。ただでなるべく多くの女とセックス出来ればいい、責任は負いたくない、金も出したくない、というノリの人。ああいう人、どこで会えるんだろう。今までの人生で接点を持ったことない。どっちかというと過分に真面目なタイプから好かれて、その気持ちが重いばかり。自分に自信ないし、2番目以降を望んでるんだけどな。誰かにとっての「一人」になるのは重荷だ。そんな責任は負えない。自分で本当によいのか、自分なんかと時間をつぶすことが、別の人と幸せになる機会を奪っているんじゃないかと考えてしまう。ペットみたいに、気の向いたときに構ってくれるだけの関係なら、こちらとしても気が楽なんだけど。妊娠したら、一人で知らない土地に行って、ひっそり育てたい。これは本音だけど、思うだけで実行は絶対しない。そうやって育つ子に申し訳ないから。でも本音。
女性は自分の価値を吊り上げることになってるらしいけど、正直遠い世界の話だ。そういう人らとは、もう生まれたときから違っていて、つまり身分が違うってことじゃないかと思う。自分はどうしようもなくハズレだから、万が一誰かに当たってしまったら、その当たった人に申し訳ない。せめて真面目ないい人には当たらないように生きるのがハズレとしての義務じゃないかと思う。こんなことを今日の増田を読んで思った。
しかしこんな重い女、軽く楽しく遊びたいって人には避けられて当然だね。あはは。自己完結してしまった。
理由はいろいろあるけど、これからは二人は男女の関係でなくて友人関係で続けていきたいという彼女からの話があった訳で。
自分自身にしてみれば、留学していて遠距離を続けいてる彼女からの些細なメッセージを敏感にキャッチできなかったこともあるだろうな。
言い訳にしたくないけど、今、現状として自分がすごく仕事が忙しくて、仕事が終わったあとの自分のメンタルケアの方が大切だったりする。
今年度から入社3年目で中間管理職になり、同じ部署のスタッフも自分を除いて総入れ替え、さらに組織の中に30-40代の普通は中間管理職するだろう世代がほんとに少なくて、経営者レベルと下の自分よりも年上の部下にあたる層に挟まれ、しかもみんな今年初めて今の部署で働くという状態。
同い年や同期、後輩からは羨ましそうな目で見られるが、そんな軽いものじゃなくて、かなりのプレッシャーだ。
そういう中での彼女からの話で、もうその彼女の「決まっていた」という決断にも、従うしかないなぁって。
誰が悪いとかはないけど、時としていろんな事が重なって、でもやっぱりそこで自分自身で納得しようとしても、どこか人に今の現状を慰めてほしいなぁってのがある。
いやいや、人それぞれの人生だから、自分自身の力で乗り越えろという意見もあるだろうけど。
仕事でもプライベートでも、最大限自分なりにやってきたけど、もういかんしがたい「壁」というか「大気」というか、「雰囲気」というか。
そういう中で生きていくことを知った。
けど、その中で生きていけるかどうか、そういうタフネスさが自分にあるかどうかはわからない。
自己完結の文書ですが、少し書いて気持ちを整理したかった。
http://fragments.g.hatena.ne.jp/nogamin/20070508/p3
http://fragments.g.hatena.ne.jp/nogamin/20070508/p4
推論に推論を重ねて自分の屈託を守るような形に自己完結した文章をわざわざ理屈こねて書いてどうしたいの?と思う。
推論って言い訳すれば好き勝手言えると思ってるかのような逃げ道作りもまた見苦しい。人として。
「避妊とかちゃんとしてんのか?」とかに至っては思い込みから生じた性的侮辱だと認識しているんだろうか?
それと、
女の子らしいことに否定的ニュアンスを(自分も女の子なのに)持っていてそうしたくないと感じている女性は、女性でありながら女性らしさを嫌っているわけですから、自分をも抑圧している女性であると考えられます。でその自分を抑圧している部分が好きなのかという話で、ちょっと変な感じがします。
というのも変な話。「あばたもえくぼ」って言葉知らない?そんなわけないよね。
当人が好きじゃないところを他人が好むなんて別によくある話。それがどう転ぶかは個人個人の話で普遍化する類じゃない。
「当事者以外は読み飛ばすしかない」ということは考えられますが、「長文レスの応酬がさらに生成されやすくなるだけ」ということの根拠がよくわからないので、あれば教えてください。
ちなみにトラックバック率で記事の優良率判定とは、例えば以下とを根拠にしています。ホットペーパーならぬ、ホット増田を増田内で自己完結的に抽出する方法を欲しているわけです。
この手の話をするたびに、「はてブでいいじゃん」という声があがりますが、最初の投稿でも書きましたが、はてブはアルファクリッパーにクリップされることでなし崩し的にブクマ率が上がり、これが記事の議論への貢献度を反映していないのではないかという疑いがあるので、はてブ以外の評価装置が欲しいわけです。