はてなキーワード: 精神論とは
しばらくすると俺は単身赴任で遠くにいかなくちゃいけない。
嫁の休職期間が終わると子供は保育園に入れて働くことになるけど、
単身赴任中なので片親で育てなきゃいけない。
さてここで考えるに、
・6歳くらいまでだったら今の片親分の収入でぜんぜん問題なく養育できる
・扶養控除とかはどうせ片親分だけにしかかかってこない
つまり、婚姻状態を維持するメリットはあまりなくて、離婚すると明らかに優遇されるメリットがありそう。
どうする俺?
「親がそんなことで離婚してたなんて子供が知ったら悲しむだろうな」
というような精神論的な批判はきっとあるんだろう。
だがその批判がまっとうなものだとしたら、この「子供が悲しむことをすれば有利になる制度」に問題はないのかといろいろ考えてしまう。
http://d.hatena.ne.jp/yamaz/20070812
id:yamazさんの「ミスとかトラブルとか」のエントリーを受けて、涙流しながら後先考えずにエントリー。
本当は業種まで言えればいいんだけど、工業系でもソフトウェアでもなく、書いてしまうと特定されてしまいそうな業界なので申し訳ないんですが。
今から5年前くらい(私は2年前に入社した)に、製造業によくある話と同じで、人間が引き起こすミスとかトラブルには会社も頭を悩ませていて、それに加えてISO9001(品質)のこともあって抜本的な対策を要したらしい。そこで、約5年前に当時の工場長が、ミス防止対策のためにとを掲げてしまった大看板がコレ。
当時の工場長は「ミス=怠り」という考えの人で、賃金アップするといえば頑張ってミスが減ると思って安易に発言してしまった。
それから現在までに、社内で公表している不良数は大幅に減ったんだけど、給料は上げることはなかった。
といいますか、上げれる訳が無いんですけどね。
まず、ミスが減ったとはいっても、理由の大半は機械性能が向上したり、業務システムが良くなっただけで、根本的な人為的ミスの削減数は些細な数だったこと。
また、そもそも「ミスを減らしたら給料を上げる仕組」なんてものが最初から無かったわけです。
おかげで、今からミス防止対策を示したとしても、「あの時、給料を上げる言ったくせに上げなかったじゃないか」とか、「どうせまた利用されるだけだし」という不信感からか、工員は向上心がなく、人為的ミスは減るどころか逆に悪質化していく一方。
正直、お手上げです。
個人的な経験からですけど、安易に精神論を掲げる人ほど、最初から出来もしないことを言いますよね・・・・
jkondoの日記 - 自分はもうこれ以上は仕事できない、というところから5回くらいは壁を越えられる気がする
いや、そりゃー社員が限界突破して働いてくれりゃあ社長は嬉しいでしょう。すぐ休む人よりずっとね。ただ、社長ってのはけっきょく自分=会社=仕事なわけで、仕事(=自分)の限界突破に挑んでも得るものがあるわけです。会社の価値が上がった!みたいな。でも普通の人間はそんなことにいちいち自分を賭けられない。自分=仕事じゃないし、ましてや自分=会社じゃない。仕事人間になりたくない、他にもやりたいことがある、というのが現代サラリーマンなわけ。24時間戦ってもいいことない、ってのは90年代に学んだことじゃないの?もうみんな忘れたか?だいたいjkondoの言う通りのことをして過労死したらどうする?誰が助けてくれるの?そもそも、仕事で限界突破したら年収も限界突破してくれるの?
じゃあ具体的にはどんな話なんだろ?サラリーマンに何を求めてるの?疲れても休むなってこと?つらい仕事が続いても辞めるなってこと?健康的な話を聞かせて欲しい。
野球選手だって、歌手だって、写真家だってなんだってそうだと思うんですけど、プロとして通用するには何年も何年もかけてその集中の度合いを増していかないといけない。それは僕たちの仕事でも全く同じです。
野球選手だって疲れたら辞めるわけです。まあ、ボロボロになるまで働いた野球選手もいるよ、古くは権藤とか、僕の世代では与田とかさ。それでどうなった?誰が助けてくれた?歌手だって、写真家だって同じ。あるいは、仕事が面白ければ限界突破したくなるかもしれない。でも、とりあえず限界突破しろなんて言うのは精神論好きの経営者くらいです。ブログなんてやめてプレジデントにでも寄稿したら?
大体、仏教に神道が少し入っているのが、日本人の形式的儀式的な宗教の中心なのに、なぜか宗教の話がことごとくのように神の話になるとか、それが面白かったり。
歴史の流れではあるけれど、悟りとか禅とか念仏とか、どちらかというと自身の精神との対話から、親兄弟や祖先につながる仏教が中心とされながら、でも、実際のところは山や森に神秘を感じ、占いやら風水やら神事やら、その場所にある「何か」を対象にしてしまう。そういった典型的アニミズムでありながら、「宗教」というと、仏教的人生観・精神論ではなく、その場の「何か」であるアニミズム的神でもなく、なぜか西洋の絶対的善や存在である神の話になっちゃう。
なんだろ。「宗教」ってのは非日常であり特別なもので、そこらのお寺や森や川にはない物、なのだろうか。
政教分離とか言っても、大きな新規公共工事では例外なく神主さんを呼んで地鎮祭をやってても、何も問題にならないし、たぶん、納車した公用車とか、自治体のシステムに安全祈願とかやってそうだし、お守りもありがち。でも、十字架を大々的に付けたらなんか文句が出そうな気がする今日この頃。
理論を無視した感情論じゃあ旧日本軍の万歳突撃みたいなものだよ。
理論だけじゃ意味がないのは確かだけれど、理論によって裏打ちされるような状況を生み出せば、行動も誘発出来る可能性が極めて高くなるのだし、考えることにはかなりの価値があるよ。
たとえば、ありえない仮定だけれど、強姦魔を止めたらその強姦魔の全財産を進呈とか、名誉欲が深い人には名誉市民として市庁舎に肖像画を飾るとか、そういった何らかの利益があれば行動しやすくなる。また、知りながら助けなかった者も同罪であり同様に処罰されるというような法制の社会であれば、皆必死に行動するよね。法でなくても、助けないやつなんて非国民だし差別されても仕方無いって道徳観があれば、やっぱり助けようとするよね。
上の例はかなり極端だし実現不可能だとしても、こんな感じで理論的に考えて助けるのが良いと考えられる状況を生み出せれば、行動が伴う確率は大幅にアップする。精神論だけで考えるより、遙かに良いはず。
http://anond.hatelabo.jp/20070316155229
「法令順守」とは「法令に触れなければよい」という意味ではない。判決から引用すれば「企業経営者には高い倫理観と順法精神が求められ、廉直かつ公正な、透明性のある経営が要請されているのである」。
(略)
連結基準があいまいな投資事業組合を使った利益のかさ上げは、判決で「投資事業組合は脱法目的で組成された」と判断され、犯罪行為になった。違法行為ではなくても、先に挙げたライブドア流の株式分割やニッポン放送の買収騒動の端緒となった立会外取引は「廉直かつ公正な経営」とはかけ離れた行いだ。
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/index20070316MS3M1600E16032007.html
ふだん自由競争とか経済成長とかを煽って「一億総投資家」みたいなことを言っておきながら、法的グレーゾーンにかかる範囲で自由に活動した結果がお偉いさんのメガネに叶わないと、とたんに実定法や金融工学の方程式などでは明文化できない倫理とか道徳とか精神論とかを持ち出したがる。ダブスタもいいとこ。
ホリエモンと日興の違いを見ていたら、いろんなものを自由競争に任せたがるお偉いさんが本当に言いたいメッセージは、どうやら
「市場を信頼せよ」
ではなくて
「オレたちを信頼せよ(たとえ結果がどうなっても)」
らしいということがハッキリしてきた。
ここで
ってのに激しく頷いた。何で教育論をぶちたがる大人の方々はあんなに多い上に、殆どが的外れなことしか言わないのだろう?
教育にも他の多くの仕事とまったく同じように、精神論以上にメソッドが重要なはずなんだけど。
特にこれ。何十回聞いたか分からないこのフレーズ。
ただしこれが、義務教育レベルの教育がどれほど中年になっても身について残っているかをチェックするテストとなれば話は変わる。
子どもの学力は世界の中で上位に入るけど、中年のテスト結果はもう散々。酷い。
「学力の世界順位が低下してる」と嘆くおっさんおばさんを見たら、
天に唾するとはこういう行為のことを言うのだと思ってあげてください。
■「安倍さんには芸がない。日本人は時々狂ったように抽象的なことを言い出す」(塩野七生、日経インタビュー)‥‥女史この他にも名言を大連発!
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C478131471/E20070104113125/index.html
「美しい国」というスローガンは,抽象的で困るな。なんとでも好きなように解釈できる言葉だ。安倍首相のホントの狙いは「美しい日本を守るために既得権者を守りましょう」ということではないか。もしくは「美しい日本を守るために現状をいじらず何もしないで寝ている総理がいい総理なのです」ということか。
単に重箱の隅をつついているような内容はどうでも良いのだけれども、「『美しい国』というスローガンは失敗」というのは同感。要するに、「美しい国だから国を愛して欲しい(愛国心を持って欲しい)」とか、そういう意味も含んでるんでしょう、よく分からないけど。でもさ、「恋愛は精神病の一種(by涼宮ハルヒ)」な訳ですよ。打倒恋愛至上主義(by本田透)な訳ですよ。それならば、『親しみの国、日本』を目指した方が良くね?夫婦愛も、「恋愛」から「親しみ」に変わるのが科学的常識になっている訳じゃないですか。愛にロマンを感じるのは自由ですが、情緒性より、実効性圧力(by草薙素子)を重視して欲しい訳です、一般庶民としては。安倍さんには、実直的理念が向いていると思うし、『美しい国』なんていうどれくらいの人間が共感するのか分からない高邁な理念よりも、私としては、もっと日本という国に「親しみ」を持ちたいし、みんなにも持ってもらいたい。日本に親しみを持って欲しいことに対して、反対する人はまずいないんじゃないですかね?
もう一つ。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_3032.html
どのくらいの人がちゃんと読んでいるのか分かりませんけど、私も5分くらい流し読みしました。が、まあ、そこそこ妥当な机上の空論が書いてあるんでしょうね、といった感じ。でも、スローガンの『希望の国、日本』は失敗だと思います。まあ、経団連の年寄りのセンスなんて期待するな、ということなんでしょうが。『希望の国』という言語センスは情緒性に富む文学な表現としてすばらしいのかも知れません。でも、実態は、「さっぱり分からねえ(by孫悟空)」な訳です。
具体的に言うと、13ページから。
「希望の国」の国柄は以下に説明する3点に要約できる。
1.精神面を含めより豊かな生活
3.世界から親しみをもたれる社会
2は、「公平だからみんなにチャンスがある」みたいなニュアンスにおいて、『希望の国』となんとなく関係ありそうな気はするんですが、1と3は『希望の国』とどういうつながりがあるのよ?無理矢理結びつけてんじゃないの?みたいな感じ。本当に『希望の国』を要約したのかよ?みたいな。
私だったら、もう少し分かりやすく、『可能性の国、日本』とでもしますよ。まあ、ニュアンス的にはほとんど一緒ような感じですが、日本に希望を感じない理由というのは、日本の可能性のなさに閉塞感を感じ、絶望しているからでしょう?winny裁判のように、テクノロジーの可能性を否定されたり、怪しげなネット財閥が潰されたりするから、「既得権益には勝てない、働いたら負けだ」という絶望を生むんでしょう?労働者の鼻面に「希望」という幻想のニンジンをぶら下げて、死ぬまでこき使い、労働者の流動性は認めても、社会階層を事実上固定させようと経団連が考えていると誰もが邪推するとか私は思いますが。実力主義をうたいながら、下克上を認めないシステムな訳ですね。で、日本では暴力革命は起こらないと踏んでいる。
違うというなら、「あなた達には、こういう可能性がある。今のところ、大体、成功率は50%くらいだ。しかし、その可能性を上げるための法案が提出される予定がある。また、そのことを説明する文書をサイトに載せた。そこには、経団連のポータルサイトのリンクから行ける」みたいな現実的な提案や客観的な話を聞きたい訳ですよ。政治的な都合で、無理矢理整合性を合わせたような話はどうでも良いんですよ。
つまり、「我々にはどういう可能性がどれくらいあるのか。どこにベット(賭ける)すべきなのか。その可能性を広げるためにどういうことをやるべきなのか」が知りたい訳ですよ。リストラされて浮浪者になったオジサンにしても、30過ぎて焦っている女性にしても、同級生の少ない子供達にしても。大体、「希望」って、主観的なものですが、必要なのは、客観的な数値でしょう。『可能性の国、日本』というキーワードからトップダウン式に考えていけば、優秀な人ばかりでしょうから、日本にはどのくらい可能性があるのか、ある程度、客観性のある数字を出して、国民の目から見てもそれなりに説得力のあり、それなりに希望の持てるビジョンを具体的に示していけると思うんですが、甘いでしょうか。
・・・いずれにしても、偉い人が年寄りの文系しかいないから、情緒的で美麗美句のゴニョゴニョした、中身があるのかないのか分からない政治的に調整されたような文章になるとしか思えないんですが。権威なんてどうでもいいから、私のような馬鹿にでも分かる(納得できる)スローガンを分かりやすく提示して欲しいですよ(もちろん、「分かりやすさの罠」もあるし、その辺はある程度割り切る必要があると思いますが)。小泉さんは、私のような馬鹿でも分かることしか言わなかったから、人気が出た訳でしょうし。中二病じゃあるまいし、背伸びする必要はないと思います。もちろん、政治はそれほど単純なものではないんでしょうが、訳の分からないものを出されても、訳が分からないとしか答えようがありません。
前回、
追試により証左を求めることが出来ない科学は全て『ニセ科学』だ!
と、定義してしまった場合の科学の脆弱性について書いたのですが、コメント欄や、トラックバックの反応を見れば解る様に到底容認出来ない!って思う人がどうしても出ちゃうんですね。
私個人的には、この定義が一番すっきりして好きなんですけど、この定義では、進化論や心理学や歴史の分野なんかもニセ科学になっちゃって困る人がいっぱい出るわけですよ。(相対性理論は違う…)
そこで、トラックバック先にもある『反証可能性』と言うものをニセ科学との判別に使えばよいというのを哲学の偉い人が言ったわけですが
実はこれもそうとう厄介な代物でして
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E8%A8%BC%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7
反証可能性の判定の困難さ
ある仮説が反証可能性を持つかどうかを判定することは難しい。次のような実験を考えてみよう。降霊会を開いて霊を呼び出す実験が失敗した。心霊現象に否定的な学者は、少なくとも今回用いた方法(条件)によって霊を呼び出せるという仮説が反証されたと考える。これに対して、心霊現象に肯定的な学者が「霊の実在を疑う者がいたための失敗」と反論する。ここで、もし心霊現象に肯定的な学者が「霊の存在を疑う者が降霊会場に立ち入らず、遠隔のビデオカメラによって撮影するならば、降霊は成功する」と付け加えるならば、この降霊理論は全体として反証可能性を持つものになる。つまり、メインの実験が失敗した後で主張者がそれに補助仮説を付け加えたとしても、その補助仮説が反証可能である限り科学的検証の場に立つことができる。反証可能性が否定されるのは、例えば、「心霊現象は科学的に分析できない」と主張するような場合である。したがって、安易に「この仮説には反証可能性がない」「これはアドホックな補助仮説である」と断定するのは危険である。
上記の『反証可能性の判定の困難さ』を読んでもらえれば解るように、ニセ科学のような学会とは違うフィールドで議論したい方に納得してもらうのは相当難しい考え方なんですよね。
時間を置いてしまいましたが、これが私の考える科学がニセ科学を糾弾することの難しさを簡潔に纏めて説明したものです。
さて、前回の文章を読めばわかると思いますが、私はインテリジェント・デザイン否定派でございます。
そんなものを科学と認めてしまえば
僕、ゼロが分母の割り算の答えがわかったよ!
…答えは『神のみぞ知る』だ!
みたいなことを言い出す生徒が出てきても不思議ではありません。
私に進化論に代わる理論を求められる方も居られるようなのですが、科学とは別に対案を出さなければ語る資格の無い場ではないのです。解らないものは解らない、納得できないものは納得できないと言ってしまえば良いのです。
別に生きていく上で解らなきゃ困ることもそんなありませんしね。
あー、他にナチスの優生論絡みで、突然変異の奇形は大事にすべきだ。というネタとか
相対性理論でも否定されずに生き残ったボーアの理論について書こうと思っていたのですが、ちょっとやる気がなくなったので気になる人は調べてみたりあれこれ推論してみたりしてください。(伏線未消化宣言)
その代わり、最後に私から皆さんにぜひ読んで欲しいお勧めの文章があります(コメント欄含)。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987
企画のアイデアが浮かばない時とか、英単語が覚えられない時とか、新しい環境での人間関係に馴染めない時とか、お金がないけどモテたい時とかは、それぞれ一見関係のなさそうなものを繋げて考えろとか、対義語とセットで記憶しろとか、とりあえず挨拶だけしろとか、一週間着回しのできる服20とか、実に具体的なテクニックが様々な書籍・雑誌で紹介されている。それなのに、いじめられた時にどうすればいいかという話になると、逃げずに戦えとか、強くなれとかいう一切役に立たない精神論、あるいは親や先生に相談しろとかいう何十年と繰り返されてきた型通りの返事ばかりが答えに挙がるのはなぜだろう。
「小学生は雑誌を買わないしネットも見ないから」ではないだろうか。人の目を引くような見出しやちょっとしたライフハックの情報は、雑誌やネットをブラウジングするような、大量の情報に囲まれている人間を対象として、そういった人間の興味を何とかして惹こうとする動機がある場合に生み出される(雑誌やウェブサイトなど)。小学生を対象とするそういった記事を提供しても小学生は雑誌を買わないしネットも見ないので、金銭的メリット(もしくは名声)がないからではないだろうか。
でもネットに関して言えば、最近は小学生もネットを見るようになってきているし、「2週間でいじめられっ子を脱するための10のメソッド」とか「登校拒否になったときのためのリンク集」などの記事を載せるサイトがあったら、やりようによってはアクセスを稼げるんじゃないか。小学生はクレジットカードを持ってないのでネットで物を買えないから広告がつきにくいというのがネックかもしれないが。