はてなキーワード: 文化遺産とは
先日のコミケの一件と言い、なんとなく幸福実現党とやらは「オタクは我々の主張に親和性が高い、上手くやれば我々が取り込める→ネットで宣伝してくれる→多方向に伝播→これで勝つる!」って思ってる節があるような気がする。
でも前に新風・維新が同じような事をやって一部オタクに熱狂的な支持を受けておきながら、蓋を開けたら票は入れてくれないわ、負けが確定したら「いや、あれネタで応援してたしwww」とか言いながらみんなあっという間に逃げて行くわ、散々な目にあっただけだったことを幸福実現党の中の人は知っておいた方がいい、と思った今日この頃。
そういや維新とかあったなー。懐かしいな今頃何してんだろ。と思ってHPを見にいったら、
http://www.shimpu.jp/kyoto/nikki/20090817.html
京都駅で誰かが電源を操作したため大停電となり、幸い死傷者はなかつたが、多くの人が迷惑を蒙つた。あれはテロだと言つていいだろう。
東京でも数時間も電車の止まる停電が度々あつたが、あれもテロだと思ふ。マスコミは原因調査中と報道するばかりで、調査結果を報じてゐない、あるひは曖味にしてゐる。文化遺産でもあり、麻生総理が大切にしてゐた旧吉田邸も、火の気がないのに燃えた。これもテロではないのか。山林火災が同時に数件発生したこともあつた。北海道の鳥インフルエンザも疑はしい。
彼等は、警告してゐるつもりなのだろう。「ミサイルを打ち落としなどしたら更に凄いテロをやるぞ!」と。こんな脅迫テロに政府は負けないと思ふが、国民に停電などの真相を発表してもらひたい。マスコミにしても、せめて産経一社ぐらゐは、独自に調べて報道したらどうか。
テロは「将軍様」の指令によるのだろうが、もう一方の大国は、民間組織がシャベルカーで農協の現金支払機を壊してゐた。何回でもやられる、多分犯人も不思議がつてゐるだらう。
その仲間の仕業か、近頃は年寄りの家が火災で燃え尽き、みんな死亡と言ふケースが多すぎる。立派な家ばかり燃えてゐる。強盗殺人の証拠隠滅のために火をつけてゐるのではないか。裕福な家が狙われてゐるやうだから、思ひあたる人は室内に番犬を飼つておいたほうがよいかもしれぬ。マスコミは、外国人の犯罪をもつと詳しく報道せよ。外国の走狗になるべからず。
ウィグル人の居住区とイスラムの文化遺産を破壊しつつ辺境「開発」。
景気刺激策のばらまきで少数民族の習俗をついでに破滅させる一石二鳥。
アルタイ山脈はモンゴル、露西亜、カザフスタン、中国を東西に貫く。
その頂点とみられる、ベルーハ山は標高4506メートル、カザフと露西亜の国境を分ける。中国側の「アルタイ市」は、地理的にウルムチの北方およそ600キロ、「阿弥泰」の漢語を当てるが、原住民はもともと漢族ではない。
ちょうどアルタイ市の位置は中国、モンゴル、露西亜、カザフ国境であり、北のロシア側はアルタイ共和国。
アルタイ山脈の雪解け水は中国領内で「ウルンクル河」と呼称される河川がカザフスタン側へ注がれ、ザイサン湖にたまり、そこからカザフ語の「イルティシ河」となって、カザフ北方を東から西へのび、ロシアへ流れ込むと西シベリアのオムスク市あたりまで達し、他の河川に合流する。
山岳地帯だが、水資源には恵まれる。
アルタイ市の北側は北屯鎮をいわれ、河の北岸を新都心「北屯新区」とする計画が決まった。景気刺激策の57兆円プロジェクトに便乗し、三年間で四億元を投資する。
くわえて民間企業への貸し出しを十億元以上と見込むそうな。
2010年にはアルタイに繋がる鉄道、高速道路開通も予定されている。巨大な開発は新都心つくり、新空港整備などに置かれ、アルタイは樹氷でも有名なので、冬の観光客が見込めると「取らぬ狸の皮算用」もやっているが、真の狙いはレアメタル確保である。
そしておそらくは過激派の温床となるのを防ぐために新都心を築くのだ。
すでに新彊ウィグル自治区には14の空港がある。予算の分捕り合戦、あげくに地元デベロッパーの賄賂、手抜き工事。危なっかしい工事が予測される空港を、新彊ウィグル自治区では三つ、新たに増やし、合計17の空港を構築する。イーニン、アクス、ウルムチなどの空港は大規模な改修工事、クチャは移転工事が進んでいる。
新彊ウィグルの西端、カシュガルという砂漠のオアシス都市は世界的にも有名だろう。キルギスと国境を接する街、イスラム教の聖地エディカル・モスクがあることでも知られる。
このカシュガル周辺がM6・8の地震の襲われたのは08年10月5日だった。同地区では1902年にもマグニチュード8・0の大地震があり800名前後の死者がでたという記憶がある。
夏は摂氏30度、真冬は零下十五度という寒暖差がはげしいカシュガルはシルクロードの要衝として古くから栄え、駱駝が闊歩して胡人の隊商が行き交い、むしろ漢族の入植が遅れた。
殆どがイスラム教徒だった。
中国のイスラム教徒にとって、カシュガルのエティカル・モスク参拝は、メッカ巡礼のごとく聖地への憧れ、1422年の建立。正門12メートル、ミナレットは18メートルの高見櫓として左右に立ち、壁面にはイスラム文化の文様が彫り込まれている。
カシュガル市は、このエティカル・モスクを中心にユスフ・ハズ・ジャジャブ(カラハン朝の大侍従)の墓、シルクロード博物館、バザールが拡がって「カシュガル旧市街」を形成した。
近郊にはアバク・ホージャ(新彊イスラム白壇派指導者)の墓、30キロ北東には千年以上前の莫爾仏塔が砂漠のなかに蜃気楼のごとく残る。
このカシュガル旧市街という文化遺産を「地震対策」を名目に建て替え、住民を近郊に「新市街」を建設し、高層アパートに移転させるという無謀なプロジェクトが展開され始めた(ヘラルドトリビューン、5月27日付け)。
すでに900世帯が立ち退き、残り13000世帯も「地震がくるから移転を急ぎなさい」と市当局から煽られて、強制的な引っ越し準備に明け暮れている。
「これはイスラムの文化遺跡破壊ではないか」と前掲ヘラルド紙が批判を繰り出した。
カシュガル市当局は対象住民と何回も話し合いを持ったと言い張るが、住民側は立ち退き日程と保証金を聞かされただけ、プロジェクト全体の費用はとりあえず4億4000万ドル、これに57兆円の景気刺激予算から追加の配分がある、という。
二十日以内に立ち退けば、保証金の他に30ドルの報奨金、一ヶ月以内なら15ドルの報奨金が貰える、と即物的なカネの宣伝を繰り返し、ウィグル人の住居という習俗、文化風習を無視してプロジェクトを急ぐ。
この結果は、さらに漢族支配への敵愾心を増幅させたようだ。
どうやら中央政府は治安対策上、イスラム教徒過激派の集合場所を分散できると踏み、省政府とカシュガル市政府の高官はプロジェクトでカネが転がり込むと踏み、土建屋的発想が文化遺産保存という考え方もついでに破壊した。
北京の文化関係者のあいだにも不評で「愚かな政策」と吐き捨てる者がいるが、国連ユネスコ「世界遺産」登録リストから北京政府は意図的にカシュガルをはずした。「これは政府高官の命令と思える」と文化遺産関係者が憶測しているという。
梅田もっちーとダンコーガイの自己啓発(笑)の両巨頭が紹介した本には無批判に絶賛がつくといういつもの流れ。はてな村民がいかに自分の頭で考えない人間かよくわかるね。ちょっと前には、英語嫌いの益川先生が歴史に名を残す研究をしたという話が流れたばっかりなのに、すぐ忘れてしまってるんだから。
ま、そんなことはともかくとして、言語学を新書レベルに読みかじった経験があれば、この両氏の書評と著者のインタビューを読んだだけで、モチヲや弾のお勧めを期待してこの本を読めば期待はずれに終わることがよくわかる。誤解なきよう、私は「日本語が亡びるとき」が面白くない本だとは思わない。何しろ相手は小説家、本当のことであろうが嘘のことであろうが面白く書いて読み手に深い印象を与えるプロなのだから、それは期待してもよい。ただし、著者に言語学のバックグラウンドがない時点で、論としての面白さを期待するのは諦めるべきだ。SFとして面白いものが科学理論としてよくできているわけではないのと同様、純文学作家の言語論に学術的レベルを期待するのは酷というものだ。もともとそういうものなのだから、モチヲや弾のようにあの本を絶賛する人というのは、アジテーターとしての自分を売り込みたいだけか、アフィリエイトで稼ぎたいだけか、あるいはまともな議論とトンデモの区別が付かない程度の知的素養しかないか、そのどれかだろうと思ってしまうのは私だけか(そういえば一部のはてな界隈で人気な「温暖化懐疑論」の論者に気象学者が一人もいないのはどういうことなんだろうね?)。
そもそも、著者が言うような意味で日本語が亡びるというのが先走りにすぎるのは英語の歴史自体が証明している。英語がどうして、同じゲルマン語のドイツ語よりも、ロマンス語のフランス語に見た目が似ているかと気になったことはないだろうか。あれはノルマン・コンクエストの帰結である。英語は文化的外圧に曝されるどころか外敵に征服され、日本語と同じかそれ以上に外来語に「汚染」された言語なのだ。しかしその伝統からシェイクスピアをはじめとする華麗な英文学の伝統が花開いた。
日本語も、実際に「地域語」であり、現代と比べものにならない外圧に曝された時代があった。飛鳥・奈良時代や、明治維新期などはそれぞれ強大な帝国の圧倒的な文化力・軍事力の前に日本は存亡の危機に瀕していた。しかしそれらの時代に外の文化を大きく導入したことで、逆に日本語の文化は大きく栄えた。
単なる「国力」だけで、言語が「地域語」に堕し、その結果衰退するなどというのが俗論にすぎないことがよくわかるだろう。
そもそも、「日本語が亡びる」という問題意識自体、日本列島の言語を「日本語」という名で無自覚にひとくくりにしてしまうことの問題が現れている。アイヌ語や琉球語を考えてみるがよい。これらを「方言」と呼ぶのは無理があるだろう。しかしながら「日本語」の隆盛のもと、これらの言語文化は危機に瀕している。
いや、言い直す。そもそも何を「方言」とよび何を「国語」「標準語」と呼ぶかは政治的な産物でしかない。ポルトガル語やオランダ語は、かつてはスペイン語やドイツ語の一方言でしかなかった。デンマークでは読み書きができる知識人はドイツ語やフランス語を使っていて、アンデルセンやキルケゴールが現れる前の「デンマーク語」は「汚い方言」でしかなかった。
その意味で、日本の文化を見直してみるとよい。「遠野物語」のような地域の民話を語れるのは一部の語り部に過ぎないのではないか?いや、かつて日本の「中央」を荷った「上方文化」でさえ、衰退が甚だしい。関西弁はラジオ・テレビの成立以降、急速に流入した「標準語」の影響によって激しく変質し、江戸時代後期から明治時代にかけて成立した上方落語でさえ、若者や子供のかなり多くはまともに聴き取りができない。上方落語が日本の言語文化の貴重な財産であることは誰も否定しまいが、これを日本人は自ら衰退に追い込んでいるのである。人間国宝の米朝師匠が事実上現役を退いた今、その前途ははなはだ暗い。
あるいは地域的な変化でなく時間的な変化を見てみるとよい。能は勿論、狂言や歌舞伎でさえまともに聴き取れない日本人がどれほどいるか。源氏物語はおろか、明治期の擬古文でさえ現代語訳なしで読めない日本人がどれほどいるか。いやそればかりか、旧字体・旧仮名遣いの文章ですらろくに読めない人間とて決して珍しくあるまい。
このようなことになったのも、一つには近代化の推進のため我々が明治期と戦後に「国語」の成立と普及を強引に推進したせいだというと言い過ぎだろうか。世界に誇る日本文学などと言うが、我々が現代「日本語」を通じて享受できる文化遺産など、たかだか百年分ぐらいしかないのである。
というか、元々これはそういうものなのである。「国語」という概念は「近代国家」が政治的に成立させるものだ。「江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた」という本があるが、これによると実際、江戸時代では各地の方言を通訳する商売が成立していたという。あるいはフランスでは近代化以前、知識人はもっぱらラテン語で読み書きをしており、フランス語は単なる「俗ラテン語」のなれの果てでしかなかった。日本ではもっとひどく、仮名文字さえ実は統一されていなかった。変体仮名というのを聞いたことがあるだろうか。うなぎ屋の看板などで今もその名残を見ることができる。これらがきちんとした正書法と文法を揃えたのは疑いもなく時の権力の政治的な措置なのだ。
それを思えば、「今の」日本語がどういう形であれ変容するのは当然であり、むしろ「近代国家」という枠組みが溶解しかかっている(EUを見ればそれは明らかだろう)現在、無理に「国語」を防衛しようとする思想はまさに時代遅れのナショナリズム、保守反動でしかないとさえ言えるのだ。
からかい半分で書き始めた文章につい力がこもってしまったが、いずれにせよ、「守るべき国語」というのはかくのごとく、大いなる虚構だ。関西人である私がこのように完璧な「標準語」で読み書きができるように、北欧あたりではテレビを通じて完璧な英語を多くの人が身につけている。だがそれがいったいなんであろうか。言語の遣い手としては、一つの言語しか使えないよりも複数の言語が使えた方が楽しいに決まっている。考えてみれば、何の問題もないのではないか。
仮にそうした時代になろうとも、日本語でしか書けないような優れた文学作品があるのならば、日本語が読める人は必ずや読むであろう。日本語でなくても書けるものは、日本語で読む必要はない。そうなって困るのはいったい誰なのだろうか。「普遍語」を寡占してグローバリズムの伝道を行うことで糧を得ていた人、昔日の栄光に浸る老人、それぐらいしか私には思いつかないのだが。
b:id:Nean えっと、だいたいの論旨に異議はないんだけれど、水村は「国語」が「虚構」ということを知った上で書いてるってのがいつの間にか飛んでるんでない? 「国力」の論点も変ですぜぃ。
水村は「国語」の虚構性を半分ぐらいしか理解していなかったと私は思います。たとえばここで挙げたような方言の視点はほとんどなかったのではないでしょうか。水村は東京生まれということなのでおそらく気づかなかったのでしょう。私のような方言話者にしてみれば「母語が『現地語』でしかない状況」なんて「なにをいまさら」でしかない、というのがこの記事を書いた大きな動機の一つでもあります。
「国力」についてはその辺の地方人バイアスが入っているかもしれませんが、正直あまり自覚はできていません。
僕は今アメリカで働いている。
ある日、パーティに同僚の両親がきていた。その同僚は実はシリア出身で、シリアから両親が遊びにきているから参加しにきたという。
シリア。。。聞いたことあるけど、どこだそれ?という感覚だった。その両親は片言の英語を話せるので、少し話し込んでみた。
シリアはアラビア語だということも僕は知らなかった。トルコの南だとか、すぐ近くにイラクがあるだとか、イスラエルはすぐそこだとか、、、、危険なところだね??といったら苦笑いされたのは、僕があまりに疎いからだろう。。。反省
僕が日本人だと知ると、ジャイカしってるか?とすぐ聞いてきた。ジャイカ?あぁ、青年海外協力隊かな?と。うん、知ってるよというと、ジャイカは素晴らしい。シリアのためにいろいろな手助けをしてくれる。シリアには数千年の歴史がある。文化遺産がある。ジャイカの日本人はそれらを守ってくれている。と。40年前にやってきたオリタという日本人がいる。彼はシリア人と結婚してシリアに住んでいるが、シリアの高官で彼を知らない者は一人もいない。素晴らしい人間なんだ。シリアのために身を捧げてくれている。と。金をばらまくのではなく、その国の文化を守る助けをするというのが素晴らしいじゃないか。文化はその国の誇りだ。その誇りを維持することを手伝ってくれる。そこに日本のお金を使う。とてもいい使い方だと思った。僕は年金くらいしか日本に払ってないけど、納税者のみなさん、よい税金の使い方されてますよ。
みんなもっと青年海外協力隊のこと褒めていいと思う。もっと注目していいと思う。僕の日本からの情報源ははてなやネットだけど、ジャイカの情報なんて見たことない。僕は日本人として彼らのことを誇りに思う。僕は青年海外協力隊に参加する勇気も体力もなかったけど、日本ではないこの場所で目の前のことをしっかりこなしていこうと初心に戻ることが出来た。
これを読んでる人たち、一つのエピソードとして、知り合いがアメリカに住んでてね、といった感じで、より多くの日本人に伝えて欲しい。そして、青年海外協力隊の現役のみなさん、OBのみなさん、ありがとう。
台湾と戦争しそーなワケだが、どうやったら戦争って終わるんだ?
ずっと疑問だったんだが、
・戦争はどうしたら「勝利」なのか。
・戦争はどうしたら終わるのか。
がすごい謎なんだ。
で、今回尖閣諸島の事故で「・・・え、こんなんで戦争すんの?マジで?」ってなってるわけで、
http://mainichi.jp/select/world/asia/news/20080614k0000m030055000c.html
国会議事堂とか皇居とかに爆弾落とせば手っ取り早いと思うんだが、
第二次大戦を経て破壊されてないってことは、そーゆーもんでもないんでしょ?
じゃあ、攻撃されるとしたら何処?新宿とか空襲したら、日本人に与えるインパクトはデカいよね。
で、お互いの国民を殺し合って消耗戦で、どっちかが「参った!」っていうまでやりあうのが戦争?
ってことは、全然終わらないの?うざっ。
個人的には戦争反対で、それはもう単純な動機で、いろんな「大切なもの」を壊されたくないから。
人ももちろんそうなんだけど、俺、美術が好きなので、美術館とか空襲受けたら「おい!」ってなる。
つうか、美術って人類の文化の至宝で、何があっても後世に伝えなければならないものだと思っているから、
美術館に攻撃とかあり得ないよね?よね?
これはもちろん自分たちだけじゃなくて、台湾にだって文化遺産はいくらでもあるわけだから、
台湾に対しても攻撃しないで欲しい。
ただ、万が一戦争が始まっちゃったら、そこで「戦争反対!」なんていうのは、リアリティがないんだわ。
うーん、反対してどうしたいの?ってなる。「台湾は戦争をやめろ」ってシュプレヒコールを日本国内であげたところで、
「・・・・はぁ。で?」ってなるわけ。
となると、戦争に勝って終わらせるのが一番いいんだよね。
でも「勝つ」のってどうすりゃいいの?
どうすりゃお互い最小限の被害で、戦争を終わらせることができるの?
俺は死にたくないし、自衛隊の人たちにも死んでほしくない。台湾人にも死んで欲しくない。
ただ、やっぱり殺されそうな目にあうなら、最低限の自衛はする。
っつっても、空襲だろうから、防空壕入ったりして、逃げることしかできないんだろうけどね。
戦争を前に、一個人、一般市民のできることって、哀れなくらい何もないねー。
ただ、始まっちゃった戦争が少しでも早く終わるんだったら、そのためにできることは、何かしたいと思うんだ。
http://anond.hatelabo.jp/20071114063529
役者も監督も芸術論も映画の歴史も知らない俺が最近観た映画レビュー。
理由?うーんと、わかんない。
http://www.elizabeththegoldenage.net/
基本的に女王様万歳ブリテンは偉大なりなバリバリのイギリス映画。(イギリス製かはしらんけど)
日本でも同じだけど、歴史物は基本的に観客は映画の中で起こる出来事を素養として
知ってることが前提になってる。信長は1582年に本能寺で死にますよ。光秀は裏切りますよ。的に。
だから、メアリーはどうあがいても死ぬし、
スペインの無敵艦隊が大挙して攻めてきてもわれらがクイーンは勝つと、ぜんぜん安心して観てられルワケ。
というわけで自然、物語のスポットというのは女王自身の知られざる内面や秘められた恋とかにあてられるんだけれど、
これも、うーん、もう展開決まっちゃってるよね。
「女王が身分違いの恋をする→ロマンス→結局失恋→それでもアタシは強く生きていくの」
みたいな。だって実っちゃったら歴史改変になるわけだし。
多分、「女王物」の映画ってこれ以前にもいっぱいあったんだと思う。他の女王物観たことないけど。
そして、おそらくはこの作品と似たような構成とストーリーをもってて、
この映画はそんな今まで築きあげられてきた、なんていうのかなぁ、自国の文化遺産?
あるいは美学とでもいうのか、それから外れずに作られた作品なんだろう。
だから、保守的なバーちゃんジーちゃんがたも安心して観られる非常に心臓に負担がかからない映画になってる。
んでもまぁ、バーちゃんジーちゃんだけをターゲットにしても金は稼げないから、
若い人向けに女王の性格を乙女丸出しにしてみました、と。
彼女の思い人であるエンタープライズ号の船長であるラリーが海に戻りたくなって
王宮を離れる許可を願い出てきた時も、子供のように拒否しまくるし、物の弾みで彼を親衛隊の隊長(だったかな)に任命までしてしまう。
んで、自分の寵愛してた御付の女官が彼の子供を妊娠してるとわかると泣き喚いて投獄したりなんかしちゃう。
でも、それをオバさんにやられると、ちょっと辛いかなぁ。