はてなキーワード: 耳すまとは
元増田です。ブクマの反応が早くて少し嬉しかったのでレスと追記。
>「耳をすませば」や「げんしけん」なら死にたくなるけど「あの花」は神アニメ、というのは奇妙な話だ、とは思いました。y_arimかエターナル東方かamamakoさんあたりが発狂してくれるのを期待。
amamako代表エントリが放浪息子ディス http://d.hatena.ne.jp/amamako/20110126/hourou なんだけど、放浪息子は全部見れたし、志村貴子モノはすごく好きなんだよね。あとげんしけんもなぜかOK、笹原、高坂、斑目、荻上、咲、彼らの選択した結果にすごく納得感があるんだよね。耳すまはダメです。
久しぶりの増田投稿だったので、過去投稿したのを見返してたらこれが出てきた。
http://anond.hatelabo.jp/20090320100120
2年前に「人間関係が不足している」と言われてるけど、一生足りないままの気がする。世の中にいろんな種類の人間がいることは言葉では理解してます。だけど、それを体感してモノにするには精神的エネルギーが必要で、それだけのエネルギーを使うことに耐えられないのです。
http://anond.hatelabo.jp/20090803105004を書いた者です。
なぜ「秒速5センチメートル」で落ち込むのかということについて(http://anond.hatelabo.jp/20090804001253からの質問)。
一言でいえば、「物語の中でくらい夢を見させてくれ」ということになる。以下、くどくどと語る。
この人(http://anond.hatelabo.jp/20090804010932)が勘所を書いていてよくまとまっている。
物語をみるって言う事は特別な状況を求めることだということ
まずこれが前提にある。ほとんどの物語というのは「桃太郎」から「インディージョーンズ」まで、「困難を乗り越えて幸せを得る様子」が描かれている。どのような「困難」を、どのように「乗り越えて」、どんな「幸せ」を得るかというところを変えていけば、ほとんどの物語をカバーすることができる。ここで勘違いしてはいけないのは、「幸せを得る」という部分が肝なのではなく、「困難を乗り越える」ところが肝だということだ。
要するに、物語の中に出てくる困難は必ず乗り越えることができる。これが大前提だ。
「秒速」の話でいえば、主人公の男の子と女の子は小学校・中学校時代によい関係にあったが、転校により遠く離れてしまう。男の子はそれでも女の子を想い続ける。この時点で物語の文法としては、「遠く離れても(=困難)」「きっと恋は成就するはずだ(=乗り越えて幸せを得る)」と予想される。ところが、最終的に大人になったその女の子は別の男性と結婚する。つまり、提示された困難を乗り越えることができていない。そればかりか、高校時代にはみんなから将来を期待されていた主人公の男の子は、勤め人であることに疲れてフリーランスのSEとなる。
物語の中でくらい夢を見させてくれという視聴者の期待を「秒速」は見事に裏切る。つらい現実から逃れようと思ったら、まざまざとつらい現実を見せつけられる。世の中そう簡単にうまくいくはずがないという現実は分かりきっているからこそ物語を見ているのに、「秒速」はあらためて「世の中うまくいかないよ」と語る。落ち込む。
私以外の「秒速で落ち込む人たち」も、そのような感じで落ち込んでいるんじゃないかと思う。とりわけ、青春時代の恋愛環境が人並みであり、社会人になってから(あるいはその年齢になってから)社会的に苦しんでいる人はそういう見方になると思う。逆に、青春時代の恋愛環境が劣悪だった人は、多分、この映画を見て「ざまあみろ」という気分になれるんじゃないかと思う。
「KIDS RETURN」もだいたい同じで、「世の中うまくいかないよ」と語る。ただし、こちらの映画は確か男子校だったはずなので、恋愛にトラウマのある人でも見られると思う。
ところで、「耳すま」「時かけ」を見て落ち込む人というのは、「俺の知らない間にみんなこんな楽しい世界にいたのか」と打ちのめされるのだと思う。では、この二つの作品で打ちのめされない人がどう見るのかといえば、「(前述の物語の文法に則って)主人公たちが困難を乗り越えることができてよかったなあ」と幸せな気分に浸るだけであり、そこに描かれている「最初から(あるいは中盤から)男女の仲がいい状態」については、特に気にせず、そういう話なんだと思って見るだけだったりする。
>・クリスマスツリーがっしゃーーんのとこ。このシーンやられた。いまでもたまにここだけ見返す。ていうかおれSなのかな。あそこまで、キレイに、みるみるうちに人の顔が青ざめていく様子なんてそうそうみれるもんじゃない。作画すごい。ラストのキスシーンに次いでエロいシーンだと思うけどどうでしょう。
ほとんど近いが、俺はその次の櫛枝が手震わせて一人で星直してるシーンが衝撃的だった。ああいう状況になったこともあり、ああいう状況になった人を目の前でも見たことある身としては、あのシーンの雰囲気の悪さがどれほどのものかよく分かった。
遠巻きに見てる人も、冷たいんじゃなくて、なんて声かけていいかわからないんだよな。助けてあげたいけどどうしたらいいかわからない。
でも、本当は竜児みたいに黙って手伝ってやればいいんだよね。あの竜児はかっこいいと思う。
>・とか、自分で書いてて自分で酷いと思った。でもあのシーンはほんとにイイ。普通ラノベで登場キャラが青ざめるようなシーンて人の生き死にとかが関わってたりするものだけど、本来ならツリーがっしゃーーん!で十分なんだっていうさ。
そう、日常生活の延長でも十分ドラマチックな展開はある。世界の滅亡も魔王の復活もいらない。
実際のところ、こんなツリーがしゃーんだっていらないんだ。
こういう学園ものの作品見る人の中には「なんて楽しそうなんだ! それに比べてオレ/私の生活は」みたいに言う人がいるけど(「耳すま」とか)、そうじゃないんだよって言ってあげたい。
久々に増田に書いてみる。空気は読んでない。ていうか増田読んでない。
だった、というのは正確じゃないかも。今も生理的にそう感じてる部分はあるし、程度問題もある。いわゆる「悪しき日教組の洗脳教育の影響」ってやつ? 母親が小学校教師だからしょがない。
まぁ自分語りはいいや。
でさ、不思議だったわけ。ネットに本格的にコミットしはじめた2002年ごろ。ちょっと見回すとみんな再軍備派。気分だの「真実の暴露」だのに酔ってレイシズムに嵌ってる有象無象の雑魚はどうでもいいとして、尊敬できる知性の持ち主であってもけっこうそうだった。切込隊長とかな(失笑した人は年代に注意)。
「なんでいい大人がこんなコト言えるんだろう」「死ぬのが怖くないんだろうか」「殺すのが怖くないんだろうか」って。思った。
違うんだ。最近やっと分かった。
「いい大人」になっちゃったから言うんだ。
赤木智弘の言うこともわかるんだよ。よくある「違う時代に生まれていたら」ってやつ。ヒロイックファンタジー志向の妥協策。でもいまオレは27。常識的に考えて、27歳会社員は、戦場で死なないし殺すことにならない。さらに、現状で総力戦の気配は毛ほどもないのだから、事態がもし順調に推移したとしても殴り合いが始まるのは数年先だ。よほど戦況が悪化しても、オレの前線配属はあり得ない。残念ながら!
っていうのに最近気づいた。
つまり上の世代が言う「(もちろん戦争も視野に入れた)自衛隊改正論」は、要するに元万年補欠野球部員だったオッサンが地元甲子園球児に向けるまなざしに似てるんじゃねぇのかなぁ。あるいは「時かけ」なり「耳すま」なりを観て、賛否いずれにしろ過剰な反応を示すオッサンに。その欲望の三角形に、見事に当事者たる世代が嵌っちゃう、という図。もちろん自分の死と殺傷を度外視していいから、現実的(!)な判断ができるようになったッてーのもあるんだろう。
なんだろう。うぜーなぁ。