2007-02-25

[]「秒速5センチメートル」第一話「桜花抄」

これはやばい。

「『耳をすませば』を観ると鬱になる」という話があるが、私にとってこれはそれに匹敵する、あるいはそれ以上の衝撃を与えてくれる。

耳をすませば」の場合、鬱になる(私の場合はむしろ「ははは、私の青春、私の人生なんて!」と逆に躁になることが多いが)要因はそのリアリティにあった。公団住宅の一室をベッドで区切り姉妹で分かち合うなどという、少女漫画では決してなしえないリアリティ(私も実際ベッドで部屋を区切り兄弟と共有していた)。それがゆえに思わず自分の青春と重ね合わせてしまい、そして絶望に陥るのである。

そして、「桜花抄」の場合、リアリティを生み出すのは鉄道である。時刻表、案内板、プラットホーム電車車両。新海氏特有の光源過多、反射過多で描かれたそれらが、青春18きっぷを使い田舎から東京観光に出かけたこともある私に、郷愁にも似た感情を覚えさせる。

さらに、この2作品の共通点として、時代は90年代半ば、主人公中学生ということが挙げられる。すなわち、携帯電話が登場しないのである。実際私が中高生のときも携帯電話などなかった。一部持っている人もいたが少なくとも私は違った。現在中高生を描くに当たって携帯電話は必須のアイテムであり、持たないとすれば何らかの理由付けが必要であろう。事実最近私が見たアニメでこれはと思うものは、携帯電話を主要なアイテムとしてうまく使いこなしていた。

だが、それでは私の青春時代とは前提が異なってしまう。新海氏は時代をずらすことでこの問題を解消し、大人にとっての青春時代と同じ設定で物語を紡ぎだしたのである。私はこれに気づいたとき、思わず「やりやがったな新海!」と叫んでしまった。ここまでやられては、のめりこめないというほうがおかしい。

続編2作でどのような展開になるかはわからないが、鬱物を求める人々にとって、「秒速5センチメートル」はこの第一話だけでも一見の価値があると信じてやまない。

追記

私が、あるいは「耳をすませば」よりも「桜花抄」にリアリティを感じる一番の理由は、自分にも似たような体験があるからである。もちろんそれは作中のように甘美なものではなく、苦いのか酸っぱいのかもわからない過ちだらけの代物ではあるが、それでも私はその思い出を捨て去ることができずに生きている。だからこそ、このような話は私にとって決して浮世離れしたものではなく、むしろ胸を締め付けるいばらとなりうるのである。

  • http://anond.hatelabo.jp/20070225154108 俺は、逆なんだよなぁ。確かに映像はリアルなんだけど、お話が浮世離れしているって言うか。 「耳すま」だって、もちろん浮世離れしてるって言えばそう...

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