「死ぬことと見つけたり」、私とて流石にこの言葉を前にすれば潔さを感じてしまう。
勿論、それは語り部の女々しさに対しての割り切りに対して感じる潔さだ。
命という最も価値のあるものを投げ捨てて見せることで「自分は武士道のためならこんな大事なものも捨てられるのです」というつまらない自慢をするために、本当に命を投げ捨ててしまえるのならばそれは大したものだ。
チキンレースとは言うまでもなく「自分の人生や社会的責任に対しての無責任さぐらいしか人に誇れそうなものがなくなった人間達のプライドの拠り所」である。
他の人間が賢いから真似しないことを必死にやってのけることで、なんとかかんとか虚無から自分のキャラを引き上げようとする持たざるものの決死の足掻きだ。
それをただ一人でやるならばそれは見下げた承認欲求のゾンビであるが、集団でやるならばそれはキャラを求めてすべてを投げ捨てたはずが結局は他人とかぶってキャラを失う真なる無能だ。
武士道は救いがたき無能たちによるこの世で最も情けないチキンレースだ。
一度気づいてしまえば、武士道の浅ましさはあらゆる場所に溢れている。
久しく被りもしない鎧兜を何時でも纏えるようにと髷を結い、とっくの昔に質に入れた刀を誤魔化すために竹光を指す。
家柄以外に誇れるものがないからと事ある毎に先祖の栄光を語り尽くし、そして結局己には何もない事を日々思い知らされる。
そこを食わねど高楊枝などと論理を捻じ曲げて見せることで格好をつけたがるのは、もはや格好つける以外に出来ることがないからだ。
頭の悪い奴が下手に無理して進学校に行くと底辺同士でつるんで髪を染めてシンナーを吸い出すのと何も変わらないのである。
反省をアピールしたいなら必死に働いて報いればいいものを、必死に働くのは面倒くさいし、ただ反省するのではなく格好はつけたいという子どものようなことを考えた結果だ。
ただ一瞬の痛みを我慢してみせることで全てを終わらせ、命の重さを利用して己の失敗からどうにか世間の耳目を逸らせぬものかと藻掻くのである。
無様である。
腹を切り、頭を下げるしか能が無い無能だと自分たちで語っているも等しいはずが、彼らの中ではアクセルベタ部身で崖の向こうへと飛びだった偉大なるイカロスなのだ。
憐れである。
無脳の集団に長期間染まれば、惨めな過去の積み上げもありもはや抜け出すことも出来ぬのだ。
目立ちたがりの保護団体がトチ狂ってキャンベルスープをぶち撒けるだけの駄々っ子と化すのと同じことを、何世代も続けてきた大をいくつもつけてよいほどの間抜け達だ。
なんて格好悪いんだろうな。
我々の先祖たちは。
🐊「・・いまからオレは鬼とならねばならん・・!」 🐊「武人としての誇りも・・意地も・・」 🐊「すべて勝利あってのもの・・!!」 🐊「たとえどんな手を使ってもヤツを討つ!...