まず前提として、リアル空間における自衛のための舐められない女像の形成は非常によいことだと考える。男は愚かだからだ。
しかし「人間を強さで測ること」それ自体は「男の価値観」であることを忘れてはならない。男がそうした論理を持っているからこそ、弱そうな女性に強くあたり、強そうな女性はスルーするという特性がある。
しかし、しかしだ。必要以上に「強さ」にこだわることは、男の価値観に取り込まれてしまう結果を招くのではないか。
男の価値観による、強さという数直線。この一本線で人間を比較することも結構だが、しかし人間の評価軸というのは決してその一軸だけではありえない。
女性らしい価値観、強さと違って計測は容易ではない「美しい」「可愛い」という価値観、これを否定して、強い女であらねばならない、というのが、男の価値観でなくてなんだというのか。
当然多様性は認められるべきで、強い女としてのあり方も当然素晴らしい。しかし他の価値観を否定する必要はないだろう。
多様な価値観を認めることと、他の価値観を否定することは真逆の考え方である。この罠に陥ってはいけない。
繰り返すが男は愚かである。実際、私が最も嫌いなものこそが女性を支配せんとする汚い男性性である。
正直男が撲滅できたら一番早いのだが、そういうわけにもいかないので、過程として舐められない強い姿をとることも必要だろうと思う。
しかし、最終的に目指すべきところは女性性の解放であって、女性が男性的になることでは断じてない。
ここを履き違えてはならないのに、履き違えた例が最近は目に余る。
おそらく履き違える彼らは「女性性」という概念を知らないのだろう。可哀想なことである。
しかも厳しいことに、一度男性的な女性像が「正義」とされた以上、これを覆すのは難しい。女性性は男性性より力がないからである。
当然多様性は認められるべきで、(中略)しかし他の価値観を否定する必要はないだろう(中略)繰り返すが男は愚かである セルフブーメランで草