2021-06-27

先輩と私

 私はその人を常に先輩と呼んでいた。だからここでもただ先輩と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然からである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先輩」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。

 私が先生と知り合いになったのは富田林である。その時私はまだ若々しい中学生であった。暑中休暇を利用して合同練習会に行った友達からぜひ来いという端書を受け取ったので、私は多少の金を工面して、出掛ける事にした。私は金の工面に二、三日を費やした。ところが私が富田林に着いて三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に地元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気からと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから地元にいる親たちに勧まない進学を強いられていた。彼の家系は皆池田高校卒業していた。彼は現代の習慣からいうと野球留学するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心の当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて富田林の近くで野球をしていたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固より帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。

 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数があるので富田林におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に留まる覚悟をした。友達徳島野球好きの息子で金に不自由のない男であったけれども、学校学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好な宿を探す面倒ももたなかったのである

 宿は富田林でも辺鄙な方角にあった。コンビニだのテーマパークだのというハイカラものには高い山を一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても5000円は取られた。けれども大○和記念塔は立派な姿で輝いていた。それに高校グラウンドへはごく近いので野球をやるには至極便利な地位を占めていた。

 私は毎日山へ野球をしに出掛けた。古い燻ぶり返った藁葺の間を通り抜けてグラウンド下りると、この辺にこれほどの野球人が住んでいるかと思うほど、シートノックに来た男や子供で砂の上が動いていた。ある時はグラウンドの上が銭湯のように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人ももたない私も、こういう賑やかな景色の中につつまれて、砂の上に寝ねそべってみたり、腰を下げて特守をしたりしているのは愉快であった。(続く)

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