2021-06-03

さなものの中にある世界

子供の頃の感覚を書く。

子供の頃私はともかく他人が目に入れないようなもの面白がる子供だった。

例えば身体的な操作感覚である、ただ坂を登るという行為においてもモリモリ登る、いつまでも登って行けるという興奮があったし、他人が見向きもしないような当たり前の道具をみて、こんなに便利なものがあるなんて楽しい、と嬉々としていた。

それを見た他人温度は低かった。なんでそんなつまらないものを、という冷水容赦なく浴びせかけてくる。そんなふうに言われても空は世界と繋がっているし、もしかすると今吸っている息は名も知れない孤島の少女が吐き出したものかもしれない、そう考えていた。情報量の少ない土地に生まれたことも心象を作り上げる要因になっていたのだろう。周囲はなぜこの一つのアイテムに、あるいは情景に素晴らしさを感じることができないのだろうと疑問に思っていた。1ポイントしかダメージが与えられない武器を、1ポイント確実にダメージが与えられるのだ、それ自体凄いことではないのか、という思いを巡らせていたことまで思い出した。

しかしこうした感覚は周囲の肯定必要であり、悲しいかな私の周りには否定的で打算的、物体物体、情景を情景としてしか考えられない大人大勢であった。その背後になにかのストーリーがあって、人々が暮らしていて、生産していて、と考えるものは皆無だった。かくして自分の感じていることはつまらないことなのだと思うようになり、やがてその感覚は忘れさられていった。そして、こうした感覚が忘れ去られるに従って、どういうわけか、というよりも必然的他人の痛みに涙を流したり、共感することがなくなっていった。

思えば自分自身、周囲の面白みや好きという感情否定していたりする。そんなものは焼き直しだ、見たことがある、繰り返してるだけだ。しかし個々人が焼き直しの中に唯一無二の何かを感じられているとすれば、それは否定されるべきではないとも思う。マッチポンプではあるが、たとえ私が対象否定してもである

見捨てられたものの中から見つけ出される小さな発見は、往々にしてイノベーションと呼ばれる原動力につながる。侮るなかれと思う。

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