2020-07-12

「何も生み出さない」という事の価値現代人は忘れてしまったように思う

何も生み出さないことによって生まれもの価値を軽んじている人が最近多い。

特に趣味創作をしている人や、その周りに集まることで自分も偉くなったように思っている人たちにそういう傾向がある。

誰かが何かを生み出さないことで、その空間にある種の余裕が生まれる。

例えば、なろうで「転生」と検索したらどうなるかを想像して欲しい。

質を問わなければ一生分の転生モノが既に積み上がっているはずだ。

そこから、「チート」「社畜」と次々属性を加えても、まだまだいくらでも作品は残るだろう。

もし、貴方がその無数の作品群の中に埋もれた作品の一つを書き上げていたとして、それが手に取られる確率はどの程度だろうか?

それらの山が、もしも今の10倍になった時、貴方作品に読者の手が伸びる可能性が1/10倍になるだけで済むだろうか?(可処分時間の有限性について少し頭を使ってもられると何故単純計算では済まないか分かってもらえると信じて細かい解説はここでは省く)

貴方が、自分作品他人に消費してもらうことを望むのなら、何も生み出さない者達に感謝する必要がある。

貴方作品が手に取られている理由の一つに、彼らが何も投稿していないことによって生まれた余裕によって貴方作品まで手が伸びたのだから

何も生み出さないことによって生まれものはある。

これは何も、つまらない作品しか作れない奴らは筆を折れとかそういう話とは全く違う。

世界を切り取る角度が全然違う。

私にとって重要なのは、何も生み出さないでいてくれた人に対して罵倒ではなく感謝をするぐらいであるべきだということだ。

その気持ちを持たず、自分作品が誰かの目を引いたのは全て自分の才気によるものだと思い上がるようなモノの見方では世界を正しく捉えるのは難しくなるばかりだ。

感謝だ。

作品を生み出すためではなく受け取るために時間を使ってくれている人々に感謝しなければ。

その気持ちはとても大事なのだ

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