2020-07-11

藤井聡太氏のファンに感じていた違和感

以前から疑問に思っていたのが、藤井聡太氏のファンは、彼がどのように指したかではなく、誰に勝ったかや昼食に何を食べたにしか興味を持ってないように見えることだ。

ニュース番組に出てくるようなファンしか観測していないからかもしれないが。

しかニュースで放映されるような野球選手ファンであっても、打法投法・走力・守備力など、選手がどのように優れているか理解したうえでファンをしているようには見える。

であるなら棋士藤井聡太氏のファンになるのであれば、氏がどのような指し方でどのように勝利しているのか理解してファンになるのが自然と思える。

しかし氏のファンのいったい何割が氏の棋譜が他の棋士と比べてどのような特色を持ち、どのように優れているのか理解したうえでファンになっているのだろうか?

それほど割合が高いとは思えない。肌感覚しかないが。

もちろんその原因には数値で棋力というもの価値明確化しづらい・スポーツ芸能と違って一目で善し悪しがわからないという要素はあるだろう。

それにしたって明確に理解できない力量や能力を好きになるということが果たしてできるだろうか。

異星人ンニュポロカラは100ナータルを359リッペスで走破することができます!と聞いて賞賛や感嘆の念を持つことができるだろうか。わたしはできない。

では、藤井聡太氏のファンは氏の個人的魅力に惹かれてファンをしているのだろうか。

しかしながら将棋強者であるということを抜きにして、氏が容貌や話術に社会的評価を受けることのできる魅力を備えているとは思えない(まことに失礼だが)

となると氏のファンは氏のどこに価値を見いだしているのだろうか。

私が思うには勝利である。氏が勝利であるというところに支持・愛好の念を持っているのである

藤井聡太個人が好きなのでもなく、藤井聡太氏の力量が好きなのではなく、藤井聡太氏の納めた勝利のものが好きなのだ

勝利者を、ただ勝利であるということを根拠賞賛したいのだ。勝負理解できずとも。

健全だとも思うし不健全だとも思える。

まる。

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