結論を先にいうと、過去の歴史で愛国心が悪用されるケースがいくつもあって、中には悲劇的な結果をもたらしたものもあった。たぶんこれからもある。
ヤバイのは愛国心の悪用なので、それに対するリテラシーだけ持ってればあとは個人の自由でいいんじゃないかな。
脊髄反射で愛国心=危険と見做して押さえつけようとするのは乱暴なので反対。
まず、愛国心の議論を眺めてて心配になるのは、この人たちは愛国心の定義が一人一人違うんじゃないかってこと。
議論の前提がずれてると展開される議論もずれ続けるので不毛。議論が前に進まないケースでよくある。
愛国心の定義について表明してから議論したほうがいいと思うが、同時に愛国の形は人それぞれ自由でいいとも思う。それこそ表現の自由である。
(ちなみにおいらの定義は日本の伝統的な文化はできるだけ残すことと、犯罪率の低さをキープすることかなぁ。)
そして、他人の愛国スタイルを見て「いいね」と思ったら賛同すればいいし、「それおかしくね?」って思ったら反論すればいいし、
抗議されてヤバイと思ったら取り下げてもいいし(どこかの出版社のように)、
抗議されても絶対正しいと思ったら突っぱねればいいし(サカキバラ本を出版した出版社のように)、自由にすればいいと思う。
おそらく「いい愛国心」と「悪い愛国心」って言うのが見えてくると思うから、それについて議論すればいいと思う。
「いい愛国心」と「悪い愛国心」は「賛同・許容できる愛国心」と「賛同・許容できない愛国心」に置き換えてもいい。
んで、愛国心が広まってほしくない人達、右傾化反対の人たちが心配してることって、要するに「政府による愛国心の悪用」や「愛国心を理由に犯罪を正当化する行為」でしょう。確かにそういうことは過去の歴史であったし今もある。世界中で。
でもさっき言ったように愛国心には「いい愛国心」と「悪い愛国心」があると思うわけ。
愛国心全てをまとめて押さえつけようとすると「いい愛国心」まで押さえつけることになるけどそれって乱暴じゃね?って思うわけ。
「悪い愛国心」の拡散と愛国心の悪用だけ予防できれば、つまり愛国心リテラシーを持てるようになれば、あとは愛国心を持とうがが持つまいが個人の自由でいいと思ったわけ。