2018-04-24

いつまでも叫ばれ続ける差別フィクションの無力さ

オタクだったり女性だったりと、対象を順繰りに変えながら差別問題が湧き上がるなか、知識人政治家やらご意見番やらですら誤認識失言してしまっているのをみると自分のような無学な人間はこの問題について語るにはあまりにも難しすぎるんだろうなと感じ始めている。

それでも議論を続けることは大事なことだとは思うが。

こういう社会一般における問題について考えると自分の非力さや遣る瀬無さに苛まれてやっぱり嬉しい気分ではなくい。

こんなとき小説映画ゲーム音楽などなど文学フィクションの力をを信じたくなる。

そしてなんとなく予感がしていることがある。

社会問題に踏み込んだ作品はやっぱり評価されるし、素晴らしいことだと思うが、それは本当に世の中を変えられているんだろうか。

実は無力なのではないか

差別を扱った映画は毎年のように公開されていてとても良い出来で、きちんと評価されているものも多い。ズートピアグレイテストショーマンも、シェイプオブウォーターも。全部の映画を見たわけじゃないけど、それでもこれだけあげられるってことはまだあると思う。

どれもマイノリティーをテーマにしていて差別問題とか触れていたし、観た人も多いはず、でも現実として差別を取り巻く状況は何年も前から改善されているかがあまりしない。

自分たちが差別に対して理解した気になっているのはこういう映画をみている2時間だけなのではないだろうか。そしてそれは、もしかして偽善ということになってはいないだろうか。

そうなのか、そうでないのか本当にわからない。Twitterで堂々となにか意見を言えるほど自分に自信がないので匿名じゃないという勇気もない。

  • 「何年も」というけど、数年で状況が改善しないくらいで効果がないと思わず、ぐっと100年くらいで考えてみたらわかる。 差別を取り巻く状況がどれくらい改善されるかは、そのくらい...

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