取引先に行く用事があり、何度か昼過ぎ頃電車に乗っていつもと違う所へ行くことがあった。
当時はまだスマホがなかったので、事前に地図を見て降り口を確認していた。ちょうど先頭車両に乗るとよいことも調べていた。
そして、この際だからとシリーズの小説を鞄に入れて、通うことにした。
時間帯が時間帯なので人は少なく、のんびりと入り口横の座席に座って小説を読んでいた。
座席は埋まっていたが、立っている人はそれほど多くない程度だったと思う。少なくとも、自分の前に人が立つことは無かった。
そうして数十ページ読み進めていると、入り口近くで「あ、すいません」と男性の声がした。
何かの拍子でぶつかったりしたのだろうと思い、また小説の世界に戻った。
別の日のことである。
また「すいません」という声がした。
女性は胸に手を当てて「いえ……」と言いながら、位置を少し離れた。
男性は携帯を持って、頭を下げて、やはり、少し位置をずらした。
自分も乗車中に携帯が鳴ってしまい、慌ててジーンズのポケットから携帯を取り出そうとした時、女性の胸に肘を当てたことがあった。
多分、似たようなことだったんだろうと思い、いたたまれないよなぁ、と二人に同情しながら、文面に目を落とした。
また別の日のことである。
小説は次の巻に移っていて、鞄の中は多少軽くなっていた。
「すいません」と声がした。
顔を上げた。
男性は同じ人だった。
同じように二人は少し離れて、吊革を掴み直していた。
また小説を読もうと顔を下げたが、気になって、文章が頭に入らなかった。
まだまだ若く、スーツを着て、少しはねた髪の毛をいじっていた。
ぼんやりと見ていたが、特に何をするでもなく、予定の駅に着いたのでそのまま降りた。
次の日のことである。
その日は雨が降ったからか、多少混んでいた。
座席は埋まり、入り口前だけでなく、座席前の吊革につかまっている人もいた。雨の臭いが少し、社内に漂っていた。
傘を持っていたので、この時は本を読んでいなかった。
鞄を膝に載せて、吊り広告の週刊誌の見出しを眺めていると、「すいません」と声がした。
昨日と同じように二人は少し離れ、女性はすぐ着いた駅で降りていった。
「大変ですね」と声を掛けていた。
男性はすぐは自分に声を掛けられたと分からなかったようだが、目を瞬かせて、少し落ちつかなげに、「あ、はい」と答えてくれた。
「自分も経験ありますが、いたたまれなくなりますよね」と話した。
「そうですね」と答えた。
「昨日も見かけたんですよ」と話した。
「そうですか……」と答えた。
男性は次の駅で降りていった。
何度か同じ車両に乗ったものの、同じシチュエーションに出会うことはなかった。
男性を見かけることもなかった。
小説は読み切れず、自宅で読んだ。
数日前、その電車に十年程ぶりに乗った。
駅は見違える程綺麗になっており、入り口や出口なども変わっていて、多少迷った。
それでもなんとかたどり着き先頭車両の場所で電車を待っていると、足下にピンクの目印が目に入り、ひとつ後の車両の方へと移っていった。