片方の親がいなくなってから数年、
私は一緒に過ごす事となった親を怒らせると、かつて両親の喧嘩でしていたことの再現のように、
「家から出ていけ」「誰が育ててると思ってるんだ」「お前の大事な○○(飼っているペットでした)殺してやる」
と言われていました。幸い、暴力はありませんでした。
怒らせることは滅多になく、ですが、私にも気持ちの変化というものが些細にあり
辛い時、嫌なことがあった時の不機嫌さをかぎつけられたときには
それはもう、私にとっては防ぎようがなく、嵐が来て私の胸の内を大いに荒らして、去って行くのでした。
私も成長し、巣立ちができる年になったころ。
実は飼っていたペットは親も気にいって好きなことを僅かながら知っていたので
親と離れたより、ペットと離れたことに当時大きな傷を負ったことを覚えています。
また、この距離であれば親とも仲良くできるかもしれない期待を寄せて、やりとりを続けていました。
しかし、その期待は間違いでした。
確かに、親を不安にさせて、時に不快にさせたことは多々あったかもしれません。
顔が見れない距離だからこそ、私の文章や言葉は冷ややかな印象を与えたことでしょう。
ですが、それだからって、「しなかったこと」「できなかったこと」に対して
ペットと会う時間を取り上げるような事……あるいはまた、ペットを殺すと脅しをかけるようなこと
しなくてもいいじゃないですか。
「できないかもしれないこと」を示唆しただけで、それを帳消しにする必要、ないじゃないですか。
それが仕事だったら当たり前だという顔をされても、私は困るんです。
家族や友人の間柄だから許される事、ビジネスだから許されない事、あるじゃないですか。
もっとも、全力を尽くしている中で連絡も相談もできないのであれば、そんなビジネスは無くなってしまえとも思うのです。
それから、私は未だに親の目を気にして
好きなことはほとんどできず、好きな服も着ず、髪を染めず、学校の頃と変わらぬ優等生でいました。
それが社会に出て人の目にどう映っているのかはわかりませんが、少し、苦しく感じます。
ひとつ行動を起こすだけで自由に動けるはずが、何か見えない縄のようなものでずっと縛られているのが、苦しいのでした。
殺してくれと言わんばかりに親の横に横たわっていることには変わらず、
また、親が言うにはそうやって私が「親のせいにする事」を直す為にそういった厳しさを見せ付けるそうなので
私はもう、全く、身動きができないまま
ただ世の中にはもっとひどい家庭がある中、私が幸せだと言う笑みを確信として胸に抱く以外
全く、できないのでした。