意識高い系と意識高いは別、ってコメントをちらほら目にするんだけど、あれってなんなんだろうな。
第一に、そんな取り決めがいつ行われたのか謎。そんなの俺知らないし、そこまで共有されている話法でもないと思う(ネットのごく一部では共通了解になってるのかもだけど)。
第二に、意識高い系と意識高いってそんなにクリアに分けられるのか、みたいな話。別にクリアに分ける義務もないと思うけど、クリアにわけられるという立場をとるんだったら明確な基準をちょうだいよと。能力?同意してもいいけど、能力ってなにさ。まだまだ掘り下げられるトピックだよね。
ただ、一番の疑問点は別にある。
意識高い系と意識高いを分けて前者をけなし後者を評価する、ってスタンスをとる場合、
「意識高い系」って揶揄がもともともっていたユーモアが失われてしまうんじゃないか?
自分の理解では、「意識高い系」って揶揄は、それに該当する人々がFBなんかで「意識高くいきましょう!」みたいなコメントをする様にたいする風刺ってニュアンスもあったはず。
意識高いってなんやねん。意識って高かったり低かったりするもんなんか、みたいな。
(違う由来を持つよ、って意見があれば教えてほしい)
この出自に着目すると、本当に意識が高い人を救い出す試みってなんかズレてないか。
もちろん、この言葉がもともと持っていたユーモアなり批評性を忘却しているから、「意識高い系」と意識高いを区別してうんぬんする発言をやめろといいたいわけではない。
流行語って一人歩きするものだし、一人歩きすること自体が必ずしも悪いわけではない。
「意識が高い」は、正式には「問題意識が高い」を意味してたんだよね。 社会の諸問題、人生の諸問題に対して「問題意識が高い」人は、それらに真剣に取り組んでいるよね。 これがホ...