圧倒的な努力の賜物か、生まれ持った才能か、偉大な親父の七光りか・・・
自分は、自信は、愚かな自分を認めるところから生まれると思う。
小さい頃から大人に怒られる事を極端に怖がる、臆病なこどもだった。
怒られると、大人から見放されたと思った。要らない子なんだと思って、孤独になった。冗談じゃなく、世界の終わりだと思った。
おかげで先生や親に従順な、「良い子」 に育ち、中高一貫校へ進学することが出来た。
中高では、人の言うことをうわっ面だけなぞる生活をしていたから、
やることなすこと全てに自信を持てなくて、何一つ集中して物事に取り組めた試しは無かった。
けれど周りの人間がすごくいい奴ばかりだったから、認めてくれてた。意気地の無い事で悩む必要は無かった。
しかし駅弁大学の部活に入ってからそれではうまく行かなくなった。
良いトコのおぼっちゃまに囲まれて暮らした中高時代とは、まるで出自の異なる、
どこの馬骨とつかない奴らの寄せ集めの「世間」へ、放り出された瞬間だった。
特にうちの代は、勝手気ままに正義ぶるやつ、天邪鬼なやつ、我慢の出来ないやつ、そんなのばっかりで、
一挙手一投足、一つ一つへ、逐一、批判を浴びせてくる。
進学校で肥えたプライドだけは人一倍で、誰よりも自分が正しいと信じてた。自分の中に圧倒的な正義がいた。
正しいことは一つで、あいつらは間違ってるんだと思った。
自分を傷つける事ばかり言う奴は、絶対に間違ってるんだと思った。
でも、自分自身もやるべきことを完璧にやれるほど、努力できなかったから、その時は自分の中の正義が、悪なる自分を容赦なく攻撃した。
そのジレンマの中でもがき続けて、とても辛い、鉛のような日々を生き残っていった。
今は、こんな事はない。
部活の先輩にとにかく俺のことを認めて、怒らないことに拘ってすら見える先輩がいて、
どんなに俺がミスしても、サボっても、試合の結果がうまくいかなくても、とりあえず励ましてくれた。
深く考えれば、その場の取り繕いかもしれない言葉だったけど、何度も聞いているうち、暗示にかかった。
それからは、いつでも正しくいられない自分を認めることができるようになり、
あの頃殺したい程憎んだ部活の奴らさえ、今では笑って話が出来る。