メンタルを病んでいる無職なので、同じような人が集まって就職を目指すセミナー的なものに参加している。ここで初めて、病んでる仲間みたいな人たちを観察する機会を得た。
就職を目指す段階にまで回復している人たちだから、一見して明らかに病んでいます、みたいな人は殆どいない。ただ、ディスカッションをすると、「ああ、この人は病んでしまうだろうな」と正直思ってしまう人が顕在化する。それは、「絶対に正しいこと」を他人に求める人だ。
具体的にどうなのか、というと、セミナー運営の人が「〇〇なときは××と考えてみましょう」と提案しているのに対し、「〇〇なときにも△△という例外があり、その場合××と考えるのは妥当ではないと思うが、どう考えていますか?」とか質問してしまう人。
他人に常に正しいことを求めても、そんなの叶えられるわけ無いじゃん、とか傍から見てて思ってしまう。他人の意見の否定禁止、というハウスルールがあるので言えないけど。
そして運営の人が例外は個別に考える必要がある、と答えると、「では最初の××と考えてみようという意見は正しくないわけだけれども、どういう見解を持っていますか?」とか畳み掛けていくのでなんて言うか見てらんない。
多分だけど、その人の中には絶対に正しいことが存在している。けれども、それが何なのかははっきりとは見えていない。だから、他人に求めるわけだ。「自分の中にある絶対に正しい価値観に沿った、絶対正しい他人の答え」を。まぁ、これは私の想像。本当にそうなのかはわからない。
「自分は正しくありたい」も相当生きづらい考えだと思うけど、「どうしてお前は正しくないんだ?」はこれははっきりと生きづらい。だって、他人が自分の価値観に沿った正しさを持っているなんていうのは奇跡でしかないからだ。こういう考えを持っていると、そりゃあ病むよ、としか思えない。他人に正しくあることを期待しても裏切られ続けるだけだから。
ここでのポイントは、他人に自分の価値観での正しさを求めること。他人がその人なりの正しさを体現していても意味が無いわけだ。自分の価値観の正しさとは違うから。
あなたが求める正しさは、あなた自身が探すしかないんです。それが探せないけど絶対に正しい答えが欲しかったら、宗教の門を叩くしかありません。この2択です。他人にあなたが納得できる正しさを求めても、求められた人はどうしようもありません。あなたすら見えていないあなたにとっての正しい答えを他人が見抜くことははっきり言って不可能です。あとね、正しければいい、というのは傲慢でしかありません。正しければ他人に責められることはない、正しい自分を責める他人の方が悪い、なんていうのは、本当に見ていて辛いです。あなたの正しさを他人にも求めることは、他人の正しさを決して認めない傲慢なのです。あなたにとっても他人にとっても絶対に正しいことを探すことは止めましょう。色々な考え方をする人がいる、それが分かるだけでずっと生きやすくなります。そして、それが分かることがあなたの考えを作る第一歩でもあります。あなたと他人の考えは違っていて当たり前であることが、あなただけの考えがあることを保証してくれるのです。
本当にこう言いたい。でも多分、本人に直接言っても届かない。だからここに放流して、気づくべき人が気づいてくれたら嬉しいと思う。
そんな私の傲慢。