2015-06-02

赤の他人に怒れるということ

私が思う、たいていのネット民が好きな話題と言えば、刑法厳罰化だ。

殺人・過失致死事件において死刑未満の判決が下されれば「死刑しろ」と騒ぎ、少年法はすぐに廃止するか、厳罰化すべきであると思っている。

死刑未満の判決には、被害者感情という当事者以外にはわかるはずもないものにしがみついて、今回の判決では到底満たされるものではない、と騒ぐ。

死刑の是非や抑止力など、専門的なことについては良書に譲るとして、今回私が主張したいのは、なぜ赤の他人についてこれほどまで怒れるのか、というものである

赤の他人が殺し、赤の他人が殺されただけであるのに、ついさっきそのニュース容疑者または被告名前(と簡単なプロフィール)を知っただけなのに、なぜそこまで怒れるのか、感情移入ができるのか、私にはわからない。

殺人の罪に問われても、被告は例え死刑でなくても10年以上は懲役を受けることが多く、服役が終わるまで私たちが生きている保障はない。そんな被告が、次は自分の命を襲うというミクロの可能性を信じるあまり死刑にしてほしいと思う側面もあるのだろうが、私はそんなことは思わない。出くわす可能性が低すぎる。

私には生憎日常生活以外で起こる事柄に対して激しい感情を持てるほどの気力はないし、私が気が狂って殺人してしまったときには、なるべく受ける罰は軽い方がいいと思っているので、できれば死刑はなくしていただきたいと思っているし、刑法39条心神喪失の不処罰を定めた規定は残してほしいと思っている。

厳罰化を求めるネット民は、そもそも「私は未来永劫犯罪を起こすことはない」と決めつけてかかっていることが理解できない。だから厳罰化を訴えるのだ。これについては、生活保護バッシングについても同じことが言える。「私は未来永劫生活保護を受ける境遇に落ちることはない」と決めつけてかかるから生活保護拠出される税金無駄に思えるのだ。私はその自信が羨ましいくらいだ。

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