ある日カッとなってもう消してしまったが、かつて「信仰がないことにいまさら苦しむ」という記事を書いた。関心がある人はインターネットアーカイブとかまとめからでも拾えると思う。もうあの時色々な言葉を投げかけてくれたユーザさんは忘れているか、はてなから去っているかもしれないけれど、あの時もらった言葉は今でも時々読み返している。どうしようもない自分の悩みを相手にしてくれて感謝している。
あの記事を書いてからもう1年半が経とうとしている。あの時分はまだ学生だったけれども、あの後少し経ってから会社に就職して今も無事社会人として生活している。職場はホワイトだし、気さくな同僚も優しい先輩もいて、仕事はやりがいがある。学生の時からの友達とも時々遊ぶし、なにかめでたいことがあるときには私のために全力で祝ってくれる。時々趣味の集まりに出かけては飲み会で笑いあい、色々な話題で盛り上がる。自分とつながってくれる人たちがいる。本当に、こんな私にはもったいないくらい恵まれた生活を送っているのだと思う。
でも結局、あの記事を書いた時から私自身は何一つ変わっていない。
まわりから受ける本当にありがたい恵みに、私は一切本気になれていない。結局私はまわりの人びとの善意を、自分の幸せのために使っておきながら心の底から感謝しているとは信じられない。時々、私が周りの人々の仕事に協力したり、何か祝うたびに、ありがとうと言ってくれる。友人はお前のこと大好きだと真正面から言ってくれる。でも私は知っている。自分がしていることが善意からじゃなくて、人付き合いはそうしないといけないよねという打算の産物だってことを。自分は一ミリも他人のことを愛していないということを。そういう自分を確認する度にゾッとする。自分の手や口がどうしようもなく汚れている気がする。もしかしたら私にも多少は愛とか善意とかがあるのかもしれない。でもそういうものがあるという可能性を、自分は直ちに打ち消してしまう。自分が善人になれるってことをどうしても信じられないんだと思う。
宗教とか、信仰とか、そういう言葉で自分のどうしようもなさを飾っても何も変わるわけではないというのは知っている。でも結局、私は程度は低いけれど似たようなことを求めているんだと思う。救われたいのだ。自分が何に苦しめられているのか、どうされたいのかわからないけれども、善意にあふれた人びとと恵まれた生活があってもなお満たされない何かを与えてくれる、いつでもどこでもどんな状況でも側にいてくれる誰かに会いたいのだと思う。コミュニティとか宗派だとかそういうものはもうどうでもよくて、そういう存在に出会って人を愛せるようになれる自分になりたい。そういう存在があるということを信じられる気持ちが欲しい。
そういう存在を待っていて、でもいつまでたっても出会えない。探し方も分からない。探すという行為自体も汚れた欺瞞のような気がしはじめている。そうして途方にくれて、恵まれた生活の中にいながらどうしようもなく悲しい日々を送っている。