2014-07-05

http://anond.hatelabo.jp/20140704205502

教と養の字の組み合わせでその様子を意味したものでしょ。

教え、伝え聞いたり伝え語ったりして情報のことと、養うはそれを維持すること、組み合わせの時点で教えることは教育なので育むほうではないよね。

伝え聞くほうじゃなくて伝え語るほうだよね。

養うは主導が対象について対象であることを維持できるよう行動することだよね。

まとめると、情報提供できる形で維持している状態が教養でしょ。

いまどき情報を伝達したり保存したりすることが容易になったから具体例を列挙できるわけだけど、具体例っていくつでもあるだろうし、伝播する情報主体が伝達時に変化する機会もふえてしまうでしょ。

教育という情報伝達の場から受け取る時点で解釈というのがあって、自分が繰り返して情報発信をできる教育側の立場という教養保持状態になるという順番だと考えてみて。

教育という時点でその趣旨を伝えきれずに例をあげて、解釈してもらったら変なことになると思わない?

先生が思う正義とは」や「僕が思う貢献とは」とか、具体例で概念名称形容して伝えると、概念形容になったりしない?

正義とは戦うこと、とか貢献とは苦労すること、と伝えたとしてそれは不可逆だよね。かならず解釈をはさまないと元の意味に戻れないよね。

「君の考える教養とは」と聞くのは「君の考える狼をここで演じてみて」というのに近くない?

それ教養の話してるんじゃなくて、教養という議題をもって各個人の個性を問うているよね?

ガラスの仮面っぽくていいなとは思うけど。

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