いわゆる「男らしい」ふるまいや言動に昔から抵抗があって、自分がそれをしているのを認識するとちょっとした嫌悪を感じる。たとえば、自信に満ちた集中力は気配りのなさに、はじらいのない率直さは下品さに、男性グループのノリは馴れ合いと低俗さに、感じられることが多い。
振り返ってみると、この抵抗感の根っこは小学生の頃にあるような気がしている。当時は体が小さく、厳格な両親の教育の支配下にあって、力勝負や乱暴な言葉づかいが苦手だった。そうした物事を避けていると、いつのまにか「女みたいだ」とはやしたてられ、いじめの対象になっていた。たぶんそれ以来、「男らしさ」にどことなく嫌悪感を抱くようになった。
大学を卒業して働いている今でも、私は「男らしさ」を積極的には内面化していない。自他に対して「男らしさ」を感じるセンサーが敏感にはたらき、自分自身をそうしたふるまいからあえて遠ざける。他の男性が「男らしい」ふるまいをしているのを見ると、感嘆と少しの嫌悪が心にあらわれる。
こうした性質は、人との関係のなかでいろいろな意味をもつ。たいていの人は私に、やさしいとか、いい人とか、そうした評価を与える。親しい友達には女性が多いけれど、ヘテロセクシュアルの恋愛対象として見られることがあまりなく、頼りなさや優柔不断さを理由に振られてばかりいる。
今は、そういうものならそういうものなんだよねと、特にどうこう気に病んではいない。義務教育以降は「男らしさ」を強要されない世界を選ぶよう努力してきたし、自分のこうした性質もある程度俯瞰できているように思う。ただ、もし「男らしさ」を身にまとってうまく扱うことができたら、「女らしさ」がそうした性質をもつのと同様、もっとモテていたんだろうか、とそこがちょっと気になっていたりはする。