美しさとは平均値だ。美しい日本語とは、限りなく平均値に近い日本語ということか。しかし、平均が美しいとは限らない。この国の人口の五割がボケ老人になったら、それにあわせた美しい日本語になるのか。
美しさとは保守であり、完成していて不変であるということだ。だが言葉は生きている。絶えず新しいものを飲みこみ、古い何かを吐き出し、形を変え続けている。そのようなものに「美しい」なんて言葉を冠して、枠にはめようというのか。野生の獣を檻で飼おうとするのに等しい行為だ。獣は野にいて初めて真価を発揮する。
「スマホなんて外来語を使わずに日本語を使いましょう」って、スマホはもう日本語だよ。五年たったら消える単語かもしれないけど。スマホはスマートフォンとも違うんだよ。スマホの三文字には「スマホ、スマホ、っていうけどちょっと前はnokia communicatorみたいな信じられないくらいダサい携帯をスマートフォンて呼んでたんだけど知らないよね。君のそのスマホ日本製だと思ってるみたいだけど、中身Androidで俺のとほとんど一緒だから。iPhone? 死ね」くらいの意味が入ってるから。そんな日本語他にないし。
例えばデフレーションのような外来語をそのまま使うことでどれだけ効率が良くなるか考えたことはあるか。デフレーションをデフレと省略することが人口に膾炙するのにどれくらい役立つか。デフレを「物価下落現象」と言い換えたところでその経済上の意味については学習しなければわからない。
それはコンテンツでもケアでも同じことだ。コンテンツを「情報内容」、ケアを「配慮的気配り的お手入れ」と言い換えたところでやはり意味は学習しなければならない。
コンテンツは単なる情報ではないし、ケアは単純な気配りでもない。新しい言葉には今までに無かった、もしくは必要なかった概念がある。カタカナを漢字で言い換えたところで、きちんとその意味を理解してないなら意味はないんじゃないか?
はっきり言えば、お前が忌避してるのは外来語の混じった日本語ではなく、お前を置いて変化し続ける世界についてだ。お前は眼の前の変化に戸惑い、その変化についていけない自分に怒りを覚え、象徴としての新しい言葉に八つ当たりしているにすぎない。日本語は変わる世界のスピードについていける柔軟な言語だ。言葉に罪はない。
新しい概念が必要になったとき、それが外国語ならとりあえず発音をカタカナで日本語に変換してしまう。長くて呼びにくいから省略してみる。なんといい加減でスピード感のある言語だろうか。
美しい日本語なんてクソくらえ。