最近になってようやくわかったこと。
言葉というのは、もうそれだけで力があって、書こうと思えばなんだって書けるんだということ。
ある物事を事実と認めたければ「・・・という事実がある」って書けばいいし、ある事実を否定したければ「・・・という事実はない」と書けばいい。
ここでそれが事実なのかどうかなんてことは関係ない。ただ、それを事実としたいかしたくないか、それだけの違い。
ほとんどのことはあらゆる側面から見ることで、肯定も出来れば否定もできる。
肯定する理由、否定する理由を並べてもっともらしく書けば書くほど信ぴょう性は上がるものの、ほんとのところはその文章を読んだだけではわからないし、実際に一時ソースにあたったところで、自分がそれをどう捉えるかで肯定も否定もできる。
ネットは今でも文章中心の文化だから、毎日大量に情報が投下されている。その中にはある事象に肯定的な人と否定的な人がいることはすぐに分かる。
たとえば原発の問題。
推進派と反対派が今でもそれぞれに意見を表明している。
その論拠も次々と出てくる。場合によっては相互に矛盾していることすらある。
ここで思うのは、何が正しいとか、間違っているとかじゃないんだってこと。ただ両者とも、まずは原発推進ありき、原発廃止ありきで論を進めている。
いわば、「推進したい」「廃止したい」という気持ちを、難しく最もらしく表現しているに過ぎない。
そして、気持ちが先行していることを文章表現で隠しているだけだから、相手方についてはまともに取り合わないし、お互いに見下した論調になっている。
ネットで建設的な意見を形成することは、今のところ難しい。なぜなら、書き手が言いっぱなしでも問題ないから。
無責任が横行している。名だたる人の文章すら、ネットのものは無責任で結論ありきの感情論ばかり。もしくは、「中立性が売り」
だからと言って、では専門家に任せておけばいい。ネットはバカと暇人のものと割りきっていいのかというと、それは違うと思う。
日本を変えて行けなければならない、日本のエネルギー政策を考えなければならない。被災地支援と復興を、将来のグランドデザインを、雇用対策を、教育を、政治を、社会を
あらゆる技術要素はすでにここにある。
あとは、情報を建設的に、多数の人の意見を、誰にでも見えるように、意見対立を見えるように、そしてわかりやすい形で意見表明できるようにする。
その意見への責任を持ち、対立意見に対する真摯な態度を表明する必要があるような仕組み、ロジックを整えることさえあれば、
ディベート三昧だったはずの雄弁会出身の首相にろくなのがいないんだよな つか日本は議論と人格が完全同一視されるから欧米的ディベートはそもそも成立しないんじゃないかな