・・・わいせつ物じゃないんですよ。
少なくとも、「この時代の社会通念」では。だから摘発されない。
それを判断するのは、あなたでも、私でもなく、裁判所でしょ?
つまり、「わいせつ物じゃない」と決めるのはあなたじゃなくて、裁判所でしょ?
ここでは裁判所はひとまず置いておいて、"あなた"、本当に、コミック LO がわいせつでないと、
繰り返しますが、本当に思ってるんですか?
少なくとも、「この時代の社会通念」では。だから摘発されない。
松文館裁判では最高裁の上告不受理によって有罪が確定して、少なくとも漫画「密室」はわいせつ物だと認定されて、
そのうえで、本当に、あなたはコミック LO がわいせつでないと、本当に、思ってるんですか?
# 裁判所の判断ではなくて、あなたが条文、判例、社会通念からどう判断するかでお願いします。
なお、私はわいせつ物だと思っていますが、法を公正・中立に運用するためにもこの法は運用上の欠陥を孕んでおり、
もう規制なんて諦めなよ? と声を大にして言いたいと思います。
まともな反論ができなくて罵倒だけして逃げるような人には負けますよ
君には無理だと思うの
振り返ってみると、私の父と母はあまり折り合いが良くなかった。だいたい顔を合わせると罵り合っていたように思う。共産党の専従だった父は実に「野党精神」旺盛な人で、家庭のことで何か気に食わないことがあると(家庭を顧みない自分を差し置いて)いつも母を詰った。共産党員らしい几帳面さで問題点を洗い出して問い詰める父に、血の滲むような努力で仕事と家事を両立し、暮らしを支えてきた母は激昂し、時には皿が飛び交うような諍いを繰り返した。それに自分がどう反応していたのかはよく思い出せない。子供なりの頓珍漢なやり方で、父や母に何か気を使っていたような気がする。(帰ってくると笑顔でお帰りを言いに行く、積極的に肩揉みをする等)ともあれ、そういう諍いに巻き込まれるのは恐ろしいことで、彼らのご機嫌をとることが生活の指針になっていたことは覚えている。概ね幼少の頃は良い子であろうとした(客観的にはともかく、主観的には)。
父はおよそ仕事に熱中する人であったが、家庭内のことに無関心というわけではなく、むしろほんの些細な出来事にまで拘り、様々な形で命令を発し、物事を支配しようとした。家庭は彼の王国だったと言ってよい(いや、人民共和国と言うべきなのか)。彼の築いてきた学歴と自信に比して、彼の党内での立場というのは実に弱々しいものであったようで、それを埋め合わせようという願望もあったのかもしれない。家庭内のどんなものにも彼は権力を振るいたがったし、自由にさせていることであっても、不満が感じられたときにはいくらでも介入し、彼の満足行くように改めさせた。彼はまさしく闘士だった。向かう方向はまるで見当違いだったが。それでも、彼が母や子供に暴力を振るうことが(記憶にある限り)さしてなかったことは、彼の美徳と言っても良いかなとは思う。しかし、彼が子供と自分の自我を分離できなかったことは、子供の成長に大きな悪影響を与えたと私は確信している。子供が何をやりたいか、ではなく、父が何をやらせたいか、子供が何に不満を感じているか、ではなく、父が何に不満を感じているか、それだけが問題になった。そこから子供が外れようとすれば、恐ろしい査問が始まることになる。今でも、そうやって査問を受けたときに感じた恐怖と屈辱の念は忘れられない(ただ、彼がそのように振舞わざるを得なかった背景について整理して考えると、彼を非難する気持ちはどんどんしぼんでいってしまう。結局、彼もまともな家庭で育っていないのだ)。私よりも数段優秀だった上の兄弟が某国立大学の受験に失敗して、それでも某有名大学に入ったときの騒ぎなど、見ているこちらまで頭がどうかしてしまうぐらいだった。優秀であっても、努力をしても、結果は真っ黒に塗り潰されている――彼との生活から、私はそういうメッセージを受け取った。
一方、母は「みんな我慢している。楽な生活なんてない」と子供たちを叱った(今でもたまに口にする)。私は恐ろしかった。超人的努力で家庭を支え、苦しみに堪え、そして報われずに生きる母の姿には、まるで生きる希望も喜びも見出せなかったからだ。正直、その言葉は、子供を教え導くためというより、家庭内で一番我慢を強いられてきた彼女の自我を守るためのものだったように思う。(「私はあなたのようには生きられない」と訴えたときの母の怒りたるや、凄まじいものだった。状況に押し潰されて、意味を考える暇もなく「我慢」の結婚生活を強いられてきた彼女には、「我慢したくない」「我慢に何の意味があるのか」という主張は自分の人生の否定にしか映らなかったのだろう。)そういう潜在意識の透けて見える姿で、子供たちに「我慢」をさせようとする母は、とてもとても恐ろしかった。今でも、我慢するしかない、という言葉を聞くと、自分の中で、明日への希望が全く消え失せていくのが分かる。「明けない夜はない」でなく「明けない夜を生きていけ」という教えには、人から長期的展望を奪い、刹那的な生き方へと誘導する力があるのではないかと思う。私は何か希望が欲しかった。結局縋る先は間違えた訳だけれども。
奇行が目立つ子供だった私は友達も少なく、専ら空想の世界に親しんで暮らした。願望を実現するために計画を立てて行動する、という発想もなく、誰かがいつか自分を拾い上げて夢の国に連れて行ってくれることを待ち望んでいた(当然、そんなものは実現しない)。現実に対して何か求めても無駄、何かやってみようとするだけ無駄、という無力感と、両親の叱責に対する強い恐怖感に私の思考も行動も拘束されきっていたのだと思う(流行の玩具を持っていない私を不憫がって、友人が「余りをあげる」と申し出てくれたときも「両親が怒るかもしれないから」と断ってしまうぐらいには)。もちろんそのような抑圧の下にあっても、子供らしく欲しい物を求めることはあったし、客観的に見れば我侭としか言いようのない要求もしてきたと思う。だが、そうした要求を口に出すことにハードルがあったし、また、そうした要求が聞き入れられることにもまた、高いハードルがあったし、要求が聞き入れられても、「聞き入れてやったこと」の恩に応えるよう求められ続ける、というさらに高いハードルがあった。無論、共働きにも関わらず決して豊かとは言えなかった我が家の台所事情を考えれば、何でも子供の求めたものを買う、なんてことはできっこなかった。だから、ことあるごとにカネ・カネ・カネと言われたのも止むを得ないところはある。ただ、父や母の不和と、それが生み出す強い緊張感、暗黙の強い要求と支配は、子供が自分自身の財産(小遣いやらお年玉やら)をどう使うか、という計画性や、正常な欲求の発達までも妨げたと思っている。どんなものに、どんな風にお金を使うのか。どう資産を運用するか。どう節約するか。何に使うか。そのことについて子供の頃に落ち着いて考え、学ぶことができた人のことを、私は羨望している。もちろん、必要を感じたなら今からでもやるしかないことではある。ただ、願望や欲求の正常な発達なしに、必要性だけでそれを手に入れようとすることはとても難しい。
私は小学校から中学校に至るまで、勉強だけはよく出来た。きちんとした学習の習慣があったわけではなく、単純にそういう方面に適性があったのだろう。テストの点数以外のあらゆる要素において、私はほとんど完全な劣等生と言ってよかった(宿題は全くやらない。ノートも全くとらない。授業中に騒ぎ出す、他の生徒と流血沙汰を起こす、等々)。行動・努力することに対する無力感と、テストの高い点数が自分自身の可能性を証明しているかのような小児的全能感とのせめぎあいが、私を同級生達と比べて圧倒的に情緒不安定で幼い人間としていた。私には何の目的も方向性もなかった。自分がどんなことをやりたいと思うか、そのためにどう努力するべきか、そういう意識は全くなく、ただ目の前にある面白いことに飛びついていただけだった。中学・高校以降はさらに反抗精神が加わり、叱責されたことに対する敵意と憎悪と、命令に対するボイコットがそれに加わる。私は自分の意思が奪われることに強い憎しみを持ち、それに抵抗した。実際に論理立てて主張をするなどの一部の行動は、それなりにまともな態度だったと評価することもできるが、「私の現在と未来は、彼らが自由にできる物ではない」と訴えるために、私自身の現在と未来の可能性を自ら破壊したことは、実に実りのない行為だったとしか言いようがない。結果は当然惨憺たるものに終わった(せめて前者の比較的穏健な訴えが当時もう少し受け入れられていれば、と思うときもあるが、それはこういう結果を招いた私自身の責任を軽くしようという、下種な欲望の表れなのだろう。私がそのような道を選んだことの責任は免れ得ない)。
本当は、両親に何かを期待するのではなく、正確に現状を認識し、自分自身の能力でそういう状況を切り拓き、逃れ、先へ進むための方策を考えるべきだったのだと思う。しかし、私には出来なかった。自分の願望を達成するために、自らの意志で計画を練り、主体的に行動していくこと、そこからフィードバックを得て、自分自身を変革し、成長していくこと、こうしたやり方から遠く離れた生き方を選んでしまった。そのことが、今も自分の人生に大きな影を落としている。そうできる可能性がなかったわけじゃない。高校時代にはそれを達成することが出来たかもしれない出来事や、出会いがあった。多分、妄想や空想でない希望があった。しかし私はそれを生かすことが出来なかった、それどころか、気付いてすらいなかった。そして、その失敗を乗り越えることなく無駄な人生を続けてきた。今更そう理解することで、私は過去から復讐を受けているような気持ちに苛まれる。今からでもあの希望に立ち返って、取り戻すことが出来たなら。それがもうとっくに手遅れで、今や子供の頃に散々お世話になった妄想とほとんど変わらないしろものだと分かっていても、そういう蜃気楼みたいな希望に縋らなければ、今は前に進む気力すら保つことが困難なのだ。
だが、そうやって、取り戻せない過去に縋りつく自分の姿はあまりにも亡霊じみていて、客観的に自分を省みる度に、鋭い痛みが走る。幻を支えにする自分の耳元で、お前はもっと建設的に、現実的に生きなければならない、と理性が囁く。多分それは正しい判断なのだけれども、私には、その囁きがおぞましいものにしか聞こえない。その声が、かつて両親が私を縛り付けた言葉を思い起こさせるからだ。親が私を支配し、縛るために使った言葉と、私自身が自分自身の意思と判断で下すその言葉は同じ手段を示していようと、同じものではない、理屈ではそう分かっていても、どうしようもない無力感に、呑みこまれそうになる。私は、どこにも逃れることができず、多分このまま檻の中で一生を終えるのだという確信。
もちろん、わざわざ自己憐憫めいた口を利くまでもなく、こんなことは世間にありふれているということはよく知っている。私はその中の、ごくつまらない例の一つにすぎない。もっと建設的に、もっと現実的に、もっと合理的に生きなければならない。さもなければ、明確な意思と主張をもって戦い抜くか、死ぬか。私には後者をやるほどの強さがない。よりよく生きなければならない。嗚咽はどこかに押し込めて。古傷はどこかに包み隠して。自己憐憫はどこかに放り捨てて。そして如何にも楽しげに。人生を満喫しているような素振りで。きっとうまく騙せるはず。
不具合を抱えながら、私は私を騙し騙し動かしている。オーバーホールできる場所まで走り続けられるのか。途中でエンコしてのたれ死ぬことになるのか。死ぬまで騙し騙し動かし続けることになるのか。恐らくは三つ目を選ぶことになろう。多分、世間に一番多いのもそれだ。そういう人生にも、そういう人生を送る人物にも、私は価値を見出すことが出来ないが、そういう人生も、そういう人生を送る人物も、痛ましいなとは思う。恐らく、もっと苦しい状況を生き延び、自己実現を果たした人々にとっては鼻で笑うような話だろう。いや、是非鼻で笑っていただきたい。勝利はあなたたちのものだ。心から、それを祝福したい。私はその隣を、びっこを引きながらとぼとぼ歩く。時折、同じ道を歩く者同士が石を投げ合うのを見る。「不幸な自分をそんなに哀れんでもらいたいか、乞食め」と。何もかもがひどく虚しいが、そう思うことさえも、ごくありふれた、つまらなく、くだらなく、何の意味もないことだと感じる。勝者の説諭も敗者の同族嫌悪も首をすくめてやり過ごし、びっこを隠してとぼとぼ歩こう。何も無い道を歩きながら願いを呟く。私と同じ道を歩む者が今後少なくありますように。同じ道を歩む者たちにささやかでも幸せがありますように。いつか全ての人々の夜が明けますように。
ttp://moonlinx.jp/headline/other/000840.php
今のほうが昔よりできることは100倍多いので、悩んでいるならやったほうがいい。自分で何か始めるか、黙って会社からお金をもらって働くか、ふたつにひとつ。シンプルですよ。
勇気を出して初めての説得
ttp://mousouteki.blog53.fc2.com/blog-entry-10867.html
賛成から直前に反対票に入れた代表者達
「日本人があんなに積極的に話しかけてきたのは就任8年間で初めて」
「話を聞くよう腕を掴まれ仕方なく聞いたが・・・
日本人の資料は読み飛ばすんだが今回はちゃんと見た」
「彼らが初めて目を見てしゃべってきたの話を聞いてみようと思った」
ttp://home.att.ne.jp/sigma/satoh/diary.html#20100310
標準化は他社には見せない技術、つまりブラックボックス化した技術とは組み合わさってはじめて儲けにつながります。Google、Apple、Microsoftも標準化をすすめる同時に、GoogleはWeb検索を含むインフラ側を徹底的に隠していますし、Appleはコンテンツ販売の部分は徹底的に隠しています。日本の企業はこのあたりがお人好しというのか、前述のように標準化というと日本では非営利な崇高な作業と思っているのか、ブラックボックス化した技術をもたずに標準化をすすめるので、標準化がうまくいっても、儲かる部分がないということになります。
☆ジョジョの奇妙な冒険名言集☆
ttp://www.gdh.fromc.jp/07.jojo/01.jojomeigenb.html
失敗というのは………… いいかよく聞けッ! 真の『失敗』とはッ! 開拓の心を忘れ! 困難に挑戦する事に無縁のところにいる者たちの事をいうのだッ! このレースに失敗なんか存在しないッ! 存在するのは冒険者だけだッ!
ttp://blog.honeyee.com/bose/archives/2008/10/06/post-9.html
賢くて優秀な人が集まって、楽しくてキャッチーなCMを作って、田舎の年寄りが、本当は使わなくてもよかったはずのお金を使ってしまうという、誰も悪くないようで、でもなにかが異常な、最終的には、みんなが、かなしい感じ。
ttp://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-014b.html
民主党の新人議員は何故かいつも集団で行動しています。国会登院のときも、バスに乗る時も、必ずといっていいほどに複数なので不思議に思っていました。が、聞くところによれば、いくつかの班が編成され、相互監視システムが構築されている由。…北朝鮮か?
「ザ・コーヴ」監督「知能が高いイルカの殺害はアウシュビッツに等しいが、家畜は問題ない」
ttp://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1441544.html
要するに、
殺して良いかどうかは俺が決める
って事だろ
【政治】民主・山岡氏「外国人参政権、参院選があるからできないが、選挙が終わったらやる」
ttp://milfled.seesaa.net/article/144024523.html
# テレビの感想(NHKスペシャル|セーフティーネット・クライシスII 非正規労働者を守れるか)
ttp://pikapika.to/yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=2866
ぼくが日本で問題だと思うのは、不信があまりにも蔓延していることだ。労働者も役人も、「相手は悪いことをしようとしている。怠慢な人間だ」と不信をもっている。目の前にいる人にかかわることをおそれているし、自分になにかあったときに助けてもらえるとは思っていない。ある種のムラ的構造が保存されていて、身内以外は信用しない。そしてなお悪いことに、核家族化がすすんで身内がとても少なくなっている。失業した労働者たちを見ていると、ぼくなんかは「いったん実家に帰ればいいのに」と思う。でも画面に出てくる人はだれも「実家に帰る」という言葉を口にしない。テレビのコメンテーターたちも、口にしない。
彼らに帰る実家はないんだろうか。ないのかもしれないし、実家がないことが悪いと思わない。ただ、そういった身寄りのない人たちがたくさんいて、どこにも助けを求められずにもがいているのだとしたら、それは問題だろうと思う。家族や地域の構造は、ここ数十年おおきく変化してきた。むかしにおいては、「セーフティネット」というのは、「家族」や「地域」だったのだろう。なにかあったら家族や親戚が助けてくれるし、都会で仕事を失えば地域に帰るという手があった。地域にも仕事があっただろう。しかしいまでは、そういったセーフティネットが失われてしまったのではないか。
番組の終盤で、東京大学教授の神野直彦さんがおっしゃっていたのは、やはり信頼の問題だった。いまの日本には人のあいだの信頼がないと。いくら制度が充実してお金が用意されていても、相互に信頼する関係がないならば、日本人のあいだに幸せは訪れないだろうと。ぼくはこの意見に心から同意する。そして相互信頼が日本に訪れるためには、哲学が必要ではないかと思うのだ。たとえば、問題を解決しようという意志や、問題を解決したいと思わせる人の絆。自立と自律にもとづいた人や地域。そういったものが日本の社会で育ってほしいと思う。
良いローカライズとは・・・イバイ・アメストイ「ゲームウォーズ 海外VS日本」第2回
ttp://www.gamebusiness.jp/article.php?id=1337
我々外国人にとって日本のゲームは「外国のゲーム」である為、欧州や北米で開発されたゲームを購入せず、遠く離れた日本で開発されたゲームを購入するのには特別な理由があります。『FINAL FANTASY』 や『RESIDENT EVIL』(バイオハザード)のように人気の高いゲームなら誰でも手を伸ばしますが、あまり知られていないパブリッシャーのゲームを手に取ると「あ、日本で開発されたゲームは外国のゲームだからバグだらけだろうな…」と思い、そのまま棚に戻してしまうことが少なくありません。それならば、少なくともバグの無いゲームにお金を賭けた方が賢明だと。
でしたら、ローカライズを行い、海外での激しい競争に生き残る為にはどうすれば良いでしょうか?それは、良いローカライズを行うことです。しかし良いローカライズ、レベルの高いローカライズとはどう言ったものでしょうか?簡潔に説明すると:
プレイされる時、ユーザーに「このゲームは海外製品である。」と思わせないような自然な内容を作ることです。プレイして違和感が全く無ければ、それは良いローカライズです。「これ…ワサビ臭いな」と思われたら悪いローカライズです。
ttp://twitter.com/ASAILABO/status/10614446738
娯楽業界は政治的ロビイングを、という意見もあるが、漫画アニメゲームその他を全部合わせても1867億。トヨタの自動車部門ひとつで一兆円。服、食事、プレゼント、デート代など恋愛マーケットは55兆円。ポップカルチャーのメイン購買層は投票権と金がない未成年で、政治的にはかなり弱い。
ttp://tagame.blogzine.jp/tagameblog/2010/03/post_ae40.html
性表現・性文化のゾーニングに関しては、「賛成」するのにやぶさかではないけれど、ただし、よく引き合いに出されるように、「欧米では……」といったグローバル・スタンダード的なレトリックを用いるのなら、ゾーニングを徹底すると同時に、ポルノグラフィーを解禁せよ、と言いたい。
ttp://d.hatena.ne.jp/keitaro2272/20100317/1268772687
情報は編纂されなければ意味を持ちにくいものです。ダイヤも磨かなければ価値はありませんし、石油も精製しなければ役に立ちません。情報においても意志、意見をもって編纂することで読み応えのあるものに『変化』させることが可能です。論理が飛躍している部分や欠けている部分があるかもしれませんが、その熱い意志や意見が記事に滲み出しているそんな記事が読まれるのだと思います。つまり『心の底から出た言葉』、『頭で汗をかいた言葉』こそが、読者を引きつけるのだと思います。
無論、それらの本気の言葉には自然と人間性が表に出たりしやすいもので『好き嫌い』が出来きやすいことは確かです。賛否両論な意見にこそ人が集まるのです。どちらともいえないものを深く掘り下げていく行為こそがその賛否両論に関わった人全体に高い価値を生み出すのだと思うのです。
ttp://twitter.com/otsune/statuses/10661905472
「不快なモノを◯◯で見た」→「◯◯は不快だ。消えてほしい」……というのは人類が動物として行動するには重要な感覚。好奇心で外敵候補に近づくと死ぬから。最近は◯◯に「mixi, 2ch, Twitter, 腐女子漫画, Togetter」を入れる思考停止が多い