そもそもなくせないことを証明したほうが早いのだが、まずは説明を試みる。
基本的な考え方としては2点。
・授業や業務の進行を維持するために、多様性の重要度を全員に理解させるより、一人が犠牲になっていたほうが合理的。
いじめられる側も環境が選べるはずで、どこか一つの環境でいじめられているからと言ってそれで人生全てが否定されてしまうというのは詭弁だ。
自分一人がいじめられることに耐えられないからといって、グループ全体の利益を犠牲にさせるのはいじめに対する報復としては大きすぎると言うものだろう。
それでも尚、いじめられる側が全ての正義を発揮してよいと言えるのだろうか。
ときにいじめの議論を見ていると、個人の幸せというものが全てにおいて優先されると勘違いしている姿を多く目にすることができる。
しかし、生物とは常に淘汰と戦い続けている。それはいじめる側でもいじめられる側でも同じだ。
自らの淘汰の恐れを、いじめという言葉一つを免罪符に相手の淘汰へと置き換えるのはいささかやりすぎているといってもいいだろう。
しかし、いじめがあったほうがいいということを証明するのは私ではない。
今この文章を読んで、その考えの多様性を認めることよりも正しさのもとに鉄槌を厭わないその気持が望んでいることなのだからだ。
いじめがないほうがいいに決まっていると殴りかかろうとするその気持こそが、全てのいじめに共通する正義感という欺瞞に他ならないのだ。
それこそが始めに言ったとおりに、なくせないことを証明するほうが簡単だとした理由である。
いじめられることを恐れる人間よ。どれだけ正論を重ねてもそのいじめを無くすことはできない。
そんなものに正面から向かい合って疲弊するよりも真っ先に逃げよ。
相手は対象が強くなれば強くなるほど強くなる。これ以上相手に武装を与えさせるな。
相手の知らぬところで体力を回復し、相手に知られぬように戦う準備を整えるのだ。
いじめられた経験があるだけ強く優しくなれる。正しい場所で戦えばいじめてくるような相手に負けることはない。
こういうアホを議論の俎上にも乗せず歯牙にもかけない風潮になったのは良いことだ