はてなキーワード: 閑話休題とは
「よなよな友達と遊び回り不規則な睡眠時間。
栄養の偏った食事。暴飲暴食。一気のみ。
自炊なんてせず、カップ麺とかお総菜(油モノ・肉モノばっかりのやつ)。
大抵は外食。」
というステレオタイプな「心は健康、体は不健康」像を挙げておくが、
こういう大学生が多数派かどうかは知らない。
簡単な料理くらいならする!ってやつも一定数いるだろうし、
そのことを語るのはおいておいて、閑話休題。
これはありがち。
今が楽しけりゃいいんだよぉ!
「酒が水だ!水分補給の手段は酒!」
「あそこのドラッグストアでいっつも買いだめしてる」
「閉店間際のスーパーだね、やっぱり。」
「やべえ昨日も徹マン」
「今週最高記録。週7飲みカラオケwww昼夜超逆転www」
これ最強。リア充が規則正しく生きたらこうなる。
女の子なら実現してる人は多そうな気も・・・
なんとなく、大学生で家族公認の彼氏がいて普通体系で特に悩みも抱えずそれなりに友達もいて、っていう。
これもなんとなくありがち。
心が不健康だから食事をつくる気力がなかったり、
友人がいない俺は寂しい日々を送っていた。
そんな俺だが、26時に寝て8時に起きる。
昼もしっかり。夜は食い過ぎず。食ってすぐ寝ず。
決まった時間に。間食はせず。
自転車で毎日2時間。15から25km/hで。
65あった体重は57に。
寝覚めは最高。体の切れもいい。快便快調。
晴れた日なんか死んでもいい。
晴れた日に川岸をいく。海をいく。カモメを聞く。波を見つめる。
風を切って走る。適度な火照り。きれいな道を颯爽と走り抜ける一台のロードレーサー。
仕事も事務的な会話のみ。
メールは11月に入って1件だ。
プライベートでの会話。店員のみ。「300円になります」。
体は元気はつらつ。
しかし精神はよどんでいる。
カップルを見ると死にたくなる。
ニヤニヤする。
献立を考える。
料理する。
楽しい。
仲間が欲しい。
http://anond.hatelabo.jp/20070623030428
トラバの流れを読まずに、思い出したことがあるんで書く。
以前イギリスに行ったことがあるんだけど、そんとき、公園のベンチで休憩してたら、なんかおっさんが何人か出てきて
演奏が始まった。
まあプロなのか、それとも近所のおっちゃんが趣味でやっとるのか、わかんなかったんだけど。
で、演奏が終わってからが、日本とは違ってた。
おっちゃんの中の一人が、帽子持って金集めに来た。
で、公園のみんなも当然のようにお金入れてた。俺と連れもその場のノリで入れておいた。
それはそれでいいんだけど。
でも、こんなの、日本じゃ絶対ありえねえよな。と今でも思い返す。
日本で帽子持って金入れてくれって、ギャラリーのとこを回って歩いたりしたら、
「なんじゃこいつ」「え? タダでしょ?」
ってなると思う。
別にそれが悪いってわけじゃないんだけど、そういう文化的な差みたいのはあるなあ、と思う。
自分がお金を払いたいと思ったら、お金を払う必要がなくても、払う、みたいな文化というか、感謝をお金で表すことに抵抗が
それは、少なくとも、今の日本にはあんまりないような気がする。
以前、「お金を払ってまで欲しいと思ってくれなければ、やってる意味がない。違法コピーしてそれで満足してしまうようなものであれば、それは自分のせいだと。作品がその程度のものでしかないと判断する」(http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0606/12/news005_3.html)
という意見を見てものすごく感動したんだけど、日本人は、タダのものにわざわざお金を払うという観念が薄いような気がする
ので、ちょっと理想論にすぎるとも思えた。(理想は重要なんだけどさ)
実はこの辺の疑念みたいのがあって、著作権の保護期間延長の話で、延長は文化に対するマイナスだっていう意見に対して
イマイチのれない。
マイナスなのは確かな話なんだろうけど、結局フリーライディングしたいだけなんじゃないか?と思えてしまうから。
閑話休題。
まあ、こないだニコニコでプレミアム会員が始まったけど、お金払うって人、結構いるみたいだから、多少変わってきてるのかな…
とは思うんだけど。(まあそのニコニコにしてからがアレっちゃアレだけどさ)
でも、こういう文化的な差みたいのがあんまり取り上げられないのは気になるなあ……。
とかなんとかいいつつ、すっかりニコニコ漬けになってる私です。
http://anond.hatelabo.jp/20070425021728
いやね、秋山瑞人の『猫の地球儀』を面白がれるSF好きの人だったら、古橋秀之の『ブラックロッド』に始まる〈ケイオス・ヘキサ三部作〉をオススメすれば「ライトノベルはじまったな」状態になるのはわかっているんだけど、でもなんかいいかげん増田で古橋布教するのも飽きたというか、業界(?)内評価高まり過ぎでいいかげん長年に渡る古橋ファンの俺でも尻がむずがゆいというか、「ライトノベル=SFの植民地」という大森望と早川書房にばかり都合のいい史観をセカイにまた広めてしまうのもどうかというか。そんなこんなの小理屈をこねてツンデレしてヘビー級ライトノベルを進めてしまう俺なのだった。べっ、別にライトノベル読んで欲しいなんて思ってないんだからねっ!
ライト級ライトノベル(桜庭一樹とヤマグチノボルの中間)なライトノベルって、改めて考え出すとタイトルが出てこないもんだなぁ。
ああ、そうだ賀東招二の「フルメタル・パニック」シリーズ(長篇の方)とかがライト級ライトノベルかも。
http://www.atmarkit.co.jp/fembedded/column/yoshida/yoshida02a.html
「薬といってぱっと頭に浮かぶものは何ですか。商品名でいってください」
私はとっさに「タイレノール」と答えた。
「では、タイレノールはどんなときに飲みますか」
「頭が痛いときに飲みます」
「そう、いままでわれわれは“頭が痛いからタイレノールをください”と指名買いができるお客さまを相手にビジネスをしていたんです。いわれたスペックを満たせばよく、そこでのヒーローはタイレノールを開発するエンジニアやそれらを高い品質でかつ低コストで作る工場の工場長でした」
「では、具合が悪くなったけれども原因が分からない。そういうときはどうしますか」
「病院へ行きます」
「病院は何をしてくれますか」
「レントゲン撮影をしたり、採血をしたりして、具合が悪い原因を調べ、病名を明らかにして、薬を出してくれます」
「それは医療というサービスが提供されたわけですね。その中身をこちらから指名したわけじゃない。求められるものがモノからサービスに変わったんです」
「求められるものがユーザー・エクスペリエンスに変わった」というのは、もはや手垢のついた言葉だ。
しかし、今現在でも、それをどれくらいの人間が実感しているかという話になると、とたんに疑問符がつくような気がする。
私も、初めて聞いたときには正直言って、ピンとこなかった。なんというか、それはそうかも知れないけれど、それほど重要なキーワードなのだろうか、毒にも薬にもならないような言葉ではないかと聞き流していた。要するに、理屈は分かるけれど、実感がないので、重要性が良くわからなかったのだ。
そして、この言葉の重要性に気づいたのは、仕事で悪戦苦闘しているときだった。私は、顧客の職場に常駐している、その辺によくいる一山いくらのIT業界人で、指示されればやるけれど、それ以上のことはできない(やらないのではなく)という典型的な人間の一人だった。そして、そういう若者が多くなったと嘆かれたりした世代の一人だった。
しかしながら、そういう仕事のやり方をしていると、必ず壁にぶつかる。私も例に漏れずに壁にぶつかった。上司に怒られ続け、顧客に怒られ続け、自分はなんて無能なのだろうと呪った。学生時代、周りの連中より真面目だと自認していたが、ここでは、そんなものは意味がなかった。求められるのは結果だけだ。どうすれば自分の無能をどうにかできるのかとライフハック的なものや自己啓発的なもの本にも手を出して片っ端から試してみた。が、望んだような結果は出なかった。(もちろん、このとき学んだノウハウが今、別の面で役に立っている部分ある。確かに無駄な経験はないのかもしれない。)
閑話休題。そんなわけで、私の悩みは続いていたのだが、ある日、ふと、ようやくなぞの一部が解けたような気がした。
要するに、私はIT業界の本質を誤解していたのである。考えてみれば、当たり前なのだが、IT業界は、昔から(そうずっと昔から)「サービス業」に分類される業種だったのである。決して「製造業」ではないのだ。
何が言いたいのかというと、サービス業の仕事を請け負っている私に求められていたのは、「ユーザー・エクスペリエンス」=「顧客の体験性」を想像し、それを考慮に入れた行動だった。例えば、報告すべきことはすべきだが、顧客にとって意味の分からない余計な報告は、するべきではない。余計な報告で顧客を混乱させるべきではないのである(私はそれまで全ての状況を報告すべきだと思っていた)。相手の望んでいることを考え、相手が「万能な人間でない」ことを忘れずに適切な情報量を適切なタイミングで適切に提供するように努力する。
思うに、その辺を早めに知る機会を作るのは重要なことかも知れない。
たとえば、一部のマスコミでよく取り上げる、勘違いをしている高齢独身女性の問題。
彼女たちの不幸は、「自分が心地よい体験を相手から提供される」ことには関心はあるが、「自ら心地よい体験を相手に提供する」ことには関心がないことだ。
非モテ問題(あるいは非コミュ問題)も同様だ。つまり問題の本質は上記の彼女たちと一緒であり、「自分が心地よい体験を相手から提供される」ことには関心はあるが、「自ら心地よい体験を相手に提供する」ことには関心がないことなのだと思う。
もちろん、才能のやる人間は、自己中心的に好き勝手に生きても、問題ないだろう。しかし、そうでない大多数の人間が、豊かな社会で自己中心的に青春時代を送った場合、厳しい社会に出てそのギャップに苦しむのである。
「相手の体験性を想像し、それを考慮に入れた行動」というのは、「慣れ」と「技術」で、ある程度なんとかなるものだと思う。もちろん、ストレスはたまるし、自分の本音を吐き出す場所というのは必要だが、凡人の場合、そういうノウハウをまず身につけないとまず「お話にならない」というのが、厳しい社会の現実なのだと思う。
よく考えると、一時期、日本のゲーム業界の勢いがなくなったのも、「プレイヤーの体験性を想像せずに、フォーマットにのっとって機械的にゲームを作った結果」なのだと思うし、使えないアプリや、ソリューションはそういうことが原因で使えないのだと思う。(と、つい万能的に使ってしまったが)
しかし、繰り返すが、「求められるものがユーザー・エクスペリエンスに変わった」というのは、もはや手垢のついた言葉だ。
そして、ふと思ったのが、下の記事。
> 豊かな時代の究極の楽しみは「クリエイトすること」、それがWeb2.0
> http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20070419/1176961765
クリエイターは、相手の体験性を想像し、それを考慮に入れて作品を作らなければ、良い作品は作れないと思う。要するに、あらゆる人間がクリエイターになり、良い作品を作ろうと努力していけば、「相手の体験性を想像し、それを考慮に入れた行動」ができる人間も増えるかもしれない。都合のいい考えかも知れないけれど、そんな社会を期待してしまった。
http://anond.hatelabo.jp/20070208150650
なんつーかさ。
で、この2つが今のところ成功してる要因は、というと。
思うに
で、結局主題なんかじゃなくて固有の技量(への期待)が楽しまれている、っつーか。
だから朝青龍がヤオだのガチだのはどーでもいーんだよ! 一億総プロレス化。
閑話休題。そう。「期待」ね。例の美人投票。プロレスのほうはもうそろそろ手四つは終わらしてほしいなー感が。展開がちょっと様式美的すぎ。鈴木みのるの登場が待たれる。
朴(中略)侍は初回の文体インパクトで持たせてるんだけど(というより「朴念仁侍」と名付けたリプライの功績か)、その縛りが効いてるようで実はかなりゆるゆるな文体、という点で継続しやすい気がする。14日まで1週間あるから、ダレず爆発させず続けてほしいものです。
http://anond.hatelabo.jp/20070120164957
まあ確かにF社絡みの仕事してるシステム屋さんの書きそうな文章だとは思ったよ。おたくの会社はクリティカルではないのかね?大丈夫?
閑話休題。
読めてないついでにもう少し読めてない話をすると、死ななきゃなにをしてもいいのかね? 何万人が路頭に迷うというのはいかにも正義っぽい発言だが、じゃあその人たちを救うために、ゴキブリ入りケーキを君は子供に買って帰ることができるのかね?
君の好きなシステマティックな話というのは、いかにも聞こえがいいな。あれか、システム屋っても営業の人か。
血液型占い、水からの伝言等のエセ科学の精緻な議論はここを読んでいるおまえらがやるとして、私は現実的にどうやって彼らエセ科学教徒(以降、彼らと呼ぶ)を改宗させるか、というのを論ずる。
「論座」では足りない。メーカー、電力系の会社が金を出してまでやるべきことではないか?マイナスイオンを冠した製品を作っているところはお断りだが。
彼らに対して、感情という面で訴えかけることは納得できないものもいるかもしれないが、目的のためならば仕方ない。おまえらの中にだって、ハヤカワ文庫のSFもの、スターウォーズ、ブレードランナーなどのSF映画、攻殻機動隊、ガンダム等のアニメに傾倒しているものがいるだろう。それらを本気で科学的でないといって馬鹿にするのか?しないだろう。フィクションとしてのエセ科学(超科学と言ったほうがいいか)と社会的、優生学的な問題を含む血液型性格診断や、安い道徳のために「科学的な事実」として紹介される水からの伝言等、様々な問題を孕むエセ科学の違いなんて彼らに理解できるもんか。彼らには適当な物語を与えといて、とりあえず引き離すほうが得策だ。
例えば「世の中の血液型性格診断(差別と言い換えてもよい)に人生を狂わされながらも、果敢と立ち向かっていく物語」とか「水からの伝言を証明しようと奮闘するマッドサイエンティストと戦う科学者たち」とかそういうのがいいね。痴漢冤罪が映画化される時代なのだから、エセ科学の問題が社会問題になっている昨今、上に挙げたような物語が映画化されてもおかしくないではないか。
エセ科学教徒よ。道徳を説くならば、神話や童話、プロジェクトXでも使えよ。科学のようでそうでないエセ科学物語なんか使うな!
去年、福岡で飲酒運転による事故が起きてからというもの、飲酒運転に対するバッシングは苛烈を極めている。これを使えばよい。
たった一つの事件が世の中の流れを大きく変えることだってあるのだ。暴論だが、小中学生が自殺したとして、遺書には「血液型で性格を一方的に決め付けられ、傷ついた」とか、「水からの伝言を否定したら、仲間外れにされた」とかって書いてあればよい。こうして社会問題化すればエセ科学は一種のタブーとなるに違いない。マスコミが大々的に報じれば完全にこちら側の勝利だ。これも一種の社会的な物語であり、道徳的な科学者連中は承服しかねるだろうが、了承してくれたまえ。だが、現実的にこのような事件が起こってもおかしくないとは思わないかね?
この手は今すぐできるのだが、現実的にはかなり難しい。おまえらがどういう学校、職場にいるのかは知らんが、雑談としてエセ科学チックな話題を振ってくる人間の一人や二人はいるだろう。そのときに反論できれば有効なのだが、おまえらが「血液型で性格が決まるわけねーだろwww。なぜなら……」と言っても、彼らは(夢のないやつだ<フィクションとしての「夢」と区別されなければならないのは前述したとおり>)とか、(空気読めねー奴だ、話題もないし、別にいいじゃん)とか(まじになってんじゃねーよ。頭かてーな、そんなんだから彼氏or彼女できねーんだよ、科学的とかどうでもいいの)とか思うに違いない。これらの思考に対して我々は有効な反論ができない。彼らと物語を共有できない以上、反論することそれ自体がタブーなのだから。結局スルーするか、付き合い上ノッてあげることしかできない。
結局のところ彼らの言論を「シュード・サイエンティフィック・ハラスメント(Pseudo Scientific Harassment)」、エセ科学ハラスメント略して「エセハラ」としてセクハラ並みの扱いにするしかない。だが、認知までに長い時間がかかりそうなので、これには道徳的科学者諸君の啓蒙活動がたいせつになってくるであろう。
しかし、これをやってしまうと彼らから我々が「サイエンティフィック・ハラスメント」と逆批判を受けてしまうことになってしまうので現実的には使えないだろう。やっぱりこの手法は無理か……。
本筋とは関係ないがカナダでは"Scientific Harassment"が問題になっているようだ。民間の医薬品メーカーが公的な研究資金をもらいながら研究結果の一部しか公表しなかったり、科学的な議論を法廷に持ち込んで意見を阻害したりしているのが問題らしい。
世の中にはUFOに宇宙人が乗っているだとか、マイナスイオンとかいろいろエセ科学はあるけれども、血液型性格診断はその中でも性質の悪い猛毒だ、と考えている。
正直言って最近問題になっている「水からの伝言」は、たいしたことではないと考えている。小学生程度の人間にわかりやすくて、道徳的な物語として使えるというメリットがあるし(科学的な事実として受け入れるかどうかは別にしてだよ)、芸能人や有名人が事実として広めたとしても、TVで「幽霊、超常現象は存在するんですねぇ」と発言する位のレベルであり、笑い話として通用する。小学生に教えたとしても「サンタクロースは存在する」ぐらいのレベルで受け取ってもらえるかわいいものなのだ(今は、の話なので芽は摘み取っておくべきだが)。
だが血液型性格診断は違う。人間として生きてゆくには、「性格」というアイデンティティが必要だが、血液型性格診断はそれを生まれながらに決定付けるという非道な行為を恥ずかしげもなく行っていおり、教育的、社会的な弊害が大きい。環境的な要素をまったく無視しており、一部の青少年の心を傷つけることは必定である。居酒屋の笑い話としてならばまだいいが、幼少期の性格形成に影響を与えることは間違いない。最近格差社会がどうとか騒いでいる割には、生まれながらの血液型で人生の性格が決まる性格格差社会を推奨しているといってよい。
その他の弊害は適当に検索してくれ。
最後に、小中学校で教員をしている人たちは、圧力やしがらみによってゲーム脳や水からの伝言などの授業をするかもしれない。だが血液型性格診断だけはやめておくれよ。もちろん反面教師としてならば、どしどしやっておくれ。